(54)弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな
ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし
前回(53)の引き続きの御和讃となります。
阿弥陀仏は有り難い仏様ではあるけれど、阿弥陀経にあるようにどこか遠くに在しますのかというとそうではありません。大願のふねに乗って助けるとよび続けて下さっています。阿弥陀仏が苦しみの海に沈んでどうにもできない私達の苦しみを抜き、楽にしてやりたいと大慈悲を起こして下さったのです。阿弥陀仏の慈悲は人間の慈悲とは違って無縁の人でも自分のこととしてかわいそうだと慈悲の心を起こして下さるのです。
昨日まで元気だと言っても私達の命はいつどうなるかわかりません。やっと安心できたと言ってもそれが続かないのです。そして仏教では死んでも別のものに生まれると言われます。その生死を繰り返して際限がありません。その私達をご覧になられて阿弥陀仏が何とか助けてやりたいと大慈悲を起こされたのです。生死の海に沈んでいるすべての人を救うために、まず浄土という所を作って往生させて、生死から離れさせて、仏にしてみせるという誓願を興されたのです。
「私(阿弥陀仏)が南無阿弥陀仏となってあなたによび掛けますので、そのよび声を聞いた人は、その通りに信じてください。その人を必ず浄土に生まれさせて仏にしてみせます。」という本願です。
南無阿弥陀仏は名のりのことであり、名号と言います。阿弥陀仏は兆載永劫の修行をされて、誓願は願われた通りになりました。本願成就と言います。すべての人を助けると聞くと、いいことですね、いつかはそれが完成するかと想像したり、いつかは皆が助かるという話だと思ってしまいます。しかし生死の苦海に沈んでいる人を必ず浄土に往生させるという本願は既に完成しています。
成就した本願を深く信じる人は皆が浄土へ往生することができます。具体的には、南無阿弥陀仏という名号となって、よばう、私達によび続けておられるのです。私の口から念仏、南無阿弥陀仏となってあらわれてくるのです。
そのよび声を聞いて、そうでございますか。有難うございます、と言える人はいいのですが、本当ですかね、それで助かるのでしょうか、と疑ってしまうのです。それでも南無阿弥陀仏となってよび続けて下さるのです。
南無阿弥陀仏が名前になったことで、私達は、聞くことができるように、称えることができるようになったのです。
教行信証の行巻の元照律師のお言葉「(わが)弥陀は名をもって物を接したまふ。ここをもって耳に聞き、口に誦するに無辺の聖徳、心識に攬入する。」数限りの無い名号のお徳が私達の心に満ち足りて下さるのです。名号度生の法、名号で衆生を済度する法と言います。
名となって、名号となってよび続けて下さることをそのまま聞いて、疑いの無いことを信心、信と言います。
そのまま聞いて、疑いのない人はみな漏らさず、寝ても覚めても隔てなく、変わらず南無阿弥陀仏を称えるのですよ、と言われます。となふべし、の「べし」は元々「うべ」という言葉から来ています。「うべ」は中世以降、「むべ」と言われ、当事者の意思に関わらず、そうなることが当然という意味です。深く信じる人はみな当然そうなる、南無阿弥陀仏を称えるのだという意味になります。
親鸞聖人の「真実信心 必具名号」というお言葉があります。深く信じる人は必ず名号が伴うと言われています。この後に「名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」とあるのでここにある名号とは、称名念仏のことです。念仏を称えていても願力の信心を伴っていない人がいるということです。信心あっての念仏ですがそうではない人がいるのです。深く信じる人は縁に触れて南無阿弥陀仏が口から出てくるのだと言われています。
自動的に口から出るのではなく、努力は必要ですが、その口からあらわれるのは、南無阿弥陀仏の、おはたらきです。