記
「煩悩具足(ぐそく)と信知(しんち)して 本願力に乗(じょう)ずれば すなはち穢身(えしん)すてはてて 法性常楽証(ほっしょうじょうらくしょう)せしむ」『高僧和讃 善導讃』(74)
煩悩具足とは私の姿のこと。欲、怒り、愚痴に代表される108の煩悩に手足を付けたのが私の本当の姿で、そのことを信知するというのは、信じ知ることです。金剛心によって私は煩悩具足だと信知するのだと『一念多念文意』の中にあります。煩悩具足の私と信知して阿弥陀仏の本願に乗ずるとあります。法蔵菩薩の頃にすべての人を救いたいと建てられたのが阿弥陀仏の本願です。すべての人とありますが、私のことです。
私達は生まれてきたら死んでいき、また何かに生まれて死んでいく、と繰り返して生死を繰り返しています。阿弥陀仏はそんな私を煩悩具足と、そして生まれて死ぬことを繰り返して迷いの世界から自分の力では離れることができないと観られたのです。法蔵菩薩はそのことを憐れんで慈悲の心を起こされたのです。そこから離れさせてそして浄土に生まれさせたいと建てられたのが阿弥陀仏の本願です。
阿弥陀仏はどのようにして助ければよいのかを大変長い間考えられたのです。例えば出家するものは助けるという本願にすれば、出家できない人は助からないことになり、すべての人を救うことができません。だから私が、仏になったなら、私が、南無阿弥陀仏となって呼びかけるので、その名を聞き、そのまま称える人は必ず助けるという南無阿弥陀仏に疑いのない人は必ず往生されるいう本願にして下さったのです。
そして本願はその通りに成就しました。願った通りにするはたらき、本願力が今はたらいているのです。その本願力に乗れば、例えば乗り物に乗れば、自分の足を動かす必要がありません。本願力にまかせることを本願力に乗ずるというのです。
そして穢れた身を捨てはてて速やかに仏のさとりを開かせるという和讃なのです。
善導大師の『往生礼讃』に
二つには深心すなはち真実の信心なり。
「自身はこれ煩悩を具足せる凡夫。善根薄少にして三界に流転して火宅を出でず」と信知す。
「いま阿弥陀仏の本弘誓願は名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむ」と信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づくと。
(信文類・往生礼讃)
とあります。親鸞聖人はこの「深心」を真実信心のこととしてこの和讃を作られたのです。
「自身はこれ煩悩を具足せる凡夫 善根薄少にして三界に流転して火宅を出でず」「いま阿弥陀仏の本弘誓願は名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむ」の二つを信知す、とあるこの二つの内容が真実信心です。機、法の二つを信知して、一念に至るに及ぶまで疑心のあることがないこと、これを真実信心と仰るのです。
こういう自分と自覚できなければ真実信心ではないと思う人がいます。こういう自分、機がわかってから、(後に)本願に乗ずるのではありません。
また「自身は煩悩具足の凡夫」と聞いてわかる人はいても、自分の善根が薄くて少ないからこの迷いの世界から離れられないのだと言われると、そこまで酷くないだろう、本気を出せば助かるのではないかとまでは思えないという人もいます。なかなかそう思えないのです。
わずか十声であっても、称え、聞いて南無阿弥陀仏に疑いのあることのない人は必ず往生を得る、信知するとあるのです。自分で自覚する、気づくのではありません。自分でこのように知らされなければならない、そうでなければ真実信心ではないのかと思う人がいます。自分は罪深いと思っても、観られる自分と観る自分となり、罪深い自分を観て、さばく自分がまた罪深い自分となり、どこまでも高みに立とうと無限に続くことになり、信知することにはなりません。
本願が私に呼びかけて下さることを親鸞聖人は本願招喚の勅命と仰るのです。御文章では「たのめ、助ける」とあり、阿弥陀仏が呼びかけて下さるのです。その呼びかけを聞き、称えることに疑いのない人を必ず往生させるのが阿弥陀仏の本願です。自分で信知するのではなく、生起本末を聞いてまかせる身にさせて頂けるのです。そのことを真実信心と言われるのです。
文責 好浦
以上