6月「にしのみや聞法会」のご案内

6月「にしのみや聞法会」のご案内

響流会では親鸞聖人のみ教えに学ぶ講座 「にしのみや聞法会」を原則毎月開催しております。 下記の開催となっております。お忙しい中だとは思いますが、どうぞご聴聞してください。

 

日時 :6月 10日(土) 時間:14時20分~ 16時半 ※今年より時間が変わりました。

場所:西宮市勤労会館 第5会議室 (会場前に案内を出しております)

講師:宮田 秀成 先生

持ち物:筆記用具 など 開催にあたり西宮市立勤労会館から勤労会館利用者への協力依頼として以下の条件が提示されております。

1.会場の利用可能人数内(定員の50%)での利用

2.原則マスクを着用 (各自ご用意ください)

3.利用の前後は手洗い、手指消毒を行う (消毒液は用意しています)

4.近距離での発声や会話は控える

5.体調不良や基礎疾患のある方は参加を控えてください

6.ご参加の方の住所、氏名、電話番号を控えさせていただくことがあります テキストがある場合は会場に用意しておりますので、どうぞお気軽におこしください。

コロナ対応等、中止、延期等変更がある時は響流会HP (https://kourukai.org/)等でお伝えいたします。

お問い合わせは18guguru@gmail.comまでお願い致します。 以上

5月「にしのみや聞法会」のご案内

5月「にしのみや聞法会」のご案内

 

響流会では親鸞聖人のみ教えに学ぶ講座 「にしのみや聞法会」を原則毎月開催しております。 下記の開催となっております。お忙しい中だとは思いますが、どうぞご聴聞してください。

日時 :5月 13日(土) 時間:14時20分~ 16時半 ※今年より時間が変わりました。

場所:西宮市勤労会館 第2会議室 (会場前に案内を出しております)

講師:宮田 秀成 先生

持ち物:筆記用具 など 開催にあたり西宮市立勤労会館から勤労会館利用者への協力依頼として以下の条件が提示されております。

1.会場の利用可能人数内(定員の50%)での利用

2.原則マスクを着用 (各自ご用意ください)

3.利用の前後は手洗い、手指消毒を行う (消毒液は用意しています)

4.近距離での発声や会話は控える

5.体調不良や基礎疾患のある方は参加を控えてください

6.ご参加の方の住所、氏名、電話番号を控えさせていただくことがあります テキストがある場合は会場に用意しておりますので、どうぞお気軽におこしください。

 

コロナ対応等、中止、延期等変更がある時は響流会HP (https://kourukai.org/)等でお伝えいたします。

 

お問い合わせは18guguru@gmail.comまでお願い致します。 以上

4月「にしのみや聞法会」のご案内

4月「にしのみや聞法会」のご案内

響流会では親鸞聖人のみ教えに学ぶ講座 「にしのみや聞法会」を原則毎月開催しております。 下記の開催となっております。お忙しい中だとは思いますが、どうぞご聴聞してください。

 

日時 :4月 22日(土) 時間:14時20分~ 16時半 ※今年より時間が変わりました。

場所:西宮市勤労会館 第2会議室 (会場前に案内を出しております)

講師:宮田 秀成 先生

持ち物:筆記用具 など 開催にあたり西宮市立勤労会館から勤労会館利用者への協力依頼として以下の条件が提示されております。

1.会場の利用可能人数内(定員の50%)での利用

2.原則マスクを着用 (各自ご用意ください)

3.利用の前後は手洗い、手指消毒を行う (消毒液は用意しています)

4.近距離での発声や会話は控える

5.体調不良や基礎疾患のある方は参加を控えてください

6.ご参加の方の住所、氏名、電話番号を控えさせていただくことがあります テキストがある場合は会場に用意しておりますので、どうぞお気軽におこしください。

コロナ対応等、中止、延期等変更がある時は響流会HP (https://kourukai.org/)等でお伝えいたします。

  • お問い合わせは18guguru@gmail.comまでお願い致します。 以上

2月にしのみや聞法会

「煩悩具足(ぐそく)と信知(しんち)して 本願力に乗(じょう)ずれば すなはち穢身(えしん)すてはてて 法性常楽証(ほっしょうじょうらくしょう)せしむ」『高僧和讃 善導讃』(74)

煩悩具足とは私の姿のこと。欲、怒り、愚痴に代表される108の煩悩に手足を付けたのが私の本当の姿で、そのことを信知するというのは、信じ知ることです。金剛心によって私は煩悩具足だと信知するのだと『一念多念文意』の中にあります。煩悩具足の私と信知して阿弥陀仏の本願に乗ずるとあります。法蔵菩薩の頃にすべての人を救いたいと建てられたのが阿弥陀仏の本願です。すべての人とありますが、私のことです。

私達は生まれてきたら死んでいき、また何かに生まれて死んでいく、と繰り返して生死を繰り返しています。阿弥陀仏はそんな私を煩悩具足と、そして生まれて死ぬことを繰り返して迷いの世界から自分の力では離れることができないと観られたのです。法蔵菩薩はそのことを憐れんで慈悲の心を起こされたのです。そこから離れさせてそして浄土に生まれさせたいと建てられたのが阿弥陀仏の本願です。

阿弥陀仏はどのようにして助ければよいのかを大変長い間考えられたのです。例えば出家するものは助けるという本願にすれば、出家できない人は助からないことになり、すべての人を救うことができません。だから私が、仏になったなら、私が、南無阿弥陀仏となって呼びかけるので、その名を聞き、そのまま称える人は必ず助けるという南無阿弥陀仏に疑いのない人は必ず往生されるいう本願にして下さったのです。

そして本願はその通りに成就しました。願った通りにするはたらき、本願力が今はたらいているのです。その本願力に乗れば、例えば乗り物に乗れば、自分の足を動かす必要がありません。本願力にまかせることを本願力に乗ずるというのです。

そして穢れた身を捨てはてて速やかに仏のさとりを開かせるという和讃なのです。

善導大師の『往生礼讃』に

二つには深心すなはち真実の信心なり。

「自身はこれ煩悩を具足せる凡夫。善根薄少にして三界に流転して火宅を出でず」と信知す。

「いま阿弥陀仏の本弘誓願は名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむ」と信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づくと。

(信文類・往生礼讃)

とあります。親鸞聖人はこの「深心」を真実信心のこととしてこの和讃を作られたのです。

「自身はこれ煩悩を具足せる凡夫 善根薄少にして三界に流転して火宅を出でず」「いま阿弥陀仏の本弘誓願は名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむ」の二つを信知す、とあるこの二つの内容が真実信心です。機、法の二つを信知して、一念に至るに及ぶまで疑心のあることがないこと、これを真実信心と仰るのです。

こういう自分と自覚できなければ真実信心ではないと思う人がいます。こういう自分、機がわかってから、(後に)本願に乗ずるのではありません。

また「自身は煩悩具足の凡夫」と聞いてわかる人はいても、自分の善根が薄くて少ないからこの迷いの世界から離れられないのだと言われると、そこまで酷くないだろう、本気を出せば助かるのではないかとまでは思えないという人もいます。なかなかそう思えないのです。

わずか十声であっても、称え、聞いて南無阿弥陀仏に疑いのあることのない人は必ず往生を得る、信知するとあるのです。自分で自覚する、気づくのではありません。自分でこのように知らされなければならない、そうでなければ真実信心ではないのかと思う人がいます。自分は罪深いと思っても、観られる自分と観る自分となり、罪深い自分を観て、さばく自分がまた罪深い自分となり、どこまでも高みに立とうと無限に続くことになり、信知することにはなりません。

本願が私に呼びかけて下さることを親鸞聖人は本願招喚の勅命と仰るのです。御文章では「たのめ、助ける」とあり、阿弥陀仏が呼びかけて下さるのです。その呼びかけを聞き、称えることに疑いのない人を必ず往生させるのが阿弥陀仏の本願です。自分で信知するのではなく、生起本末を聞いてまかせる身にさせて頂けるのです。そのことを真実信心と言われるのです。

文責 好浦

以上

3月「にしのみや聞法会」のご案内

3月「にしのみや聞法会」のご案内

響流会では親鸞聖人のみ教えに学ぶ講座 「にしのみや聞法会」を原則毎月開催しております。 下記の開催となっております。お忙しい中だとは思いますが、どうぞご聴聞してください。


日時 〇3月 25日(土) 時間:14時20分~ 16時半 (途中休憩)※今年より時間が変わりました。

場所:西宮市勤労会館 第2会議室 (会場前に案内を出しております)

講師:宮田 秀成 先生

持ち物:筆記用具 など

開催にあたり西宮市立勤労会館から勤労会館利用者への協力依頼として以下の条件が提示されております。

1.会場の利用可能人数内(定員の50%)での利用
2.原則マスクを着用 (各自ご用意ください) 3.利用の前後は手洗い、手指消毒を行う (消毒液は用意しています)
4.近距離での発声や会話は控える
5.体調不良や基礎疾患のある方は参加を控えてください
6.ご参加の方の住所、氏名、電話番号を控えさせていただくことがあります テキストがある場合は会場に用意しておりますので、どうぞお気軽におこしください。コロナ対応等、中止、延期等変更がある時は響流会HP (https://kourukai.org/)等でお伝えいたします。 お問い合わせは18guguru@gmail.comまでお願い致します。 以上

2月「にしのみや聞法会」のご案内

2月「にしのみや聞法会」のご案内

響流会では親鸞聖人のみ教えに学ぶ講座 「にしのみや聞法会」を原則毎月開催しております。 下記の開催となっております。お忙しい中だとは思いますが、どうぞご聴聞してください。

日時

〇2月 25日(土) 時間:14時20分~ 16時半 (途中休憩)※今年より時間が変わりました。

場所:西宮市勤労会館  第2会議室 (会場前に案内を出しております)

講師:宮田 秀成 先生

持ち物:筆記用具 など

 

 

開催にあたり西宮市立勤労会館から勤労会館利用者への協力依頼として以下の条件が提示されております。

1.会場の利用可能人数内(定員の50%)での利用

2.原則マスクを着用 (各自ご用意ください)

3.利用の前後は手洗い、手指消毒を行う (消毒液は用意しています)

4.近距離での発声や会話は控える

5.体調不良や基礎疾患のある方は参加を控えてください

6.ご参加の方の住所、氏名、電話番号を控えさせていただくことがあります

 

テキストがある場合は会場に用意しておりますので、どうぞお気軽におこしください。コロナ対応等、中止、延期等変更がある時は響流会HP (https://kourukai.org/)等でお伝えいたします。

お問い合わせは18guguru@gmail.comまでお願い致します。 以上

10月の『にしのみや聞法会』

にしのみや聞法会が開催されました。



自力諸善の人はみな 仏智の不思議をうたがへば 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける 『正像末和讃(誡疑讃)』

自らの力でもろもろの善を行うことによって浄土往生したいと思って実行している人はみな仏智の不思議を疑っているので七宝の牢獄に入るのだと戒めておられる和讃です。

その前の和讃は自力で念仏して助かろうとしても化土にしか往けないというものでした。今日のこの和讃は諸善によって何とか助かろうと思う人について書かれた和讃です。そう思うのは19願に、菩提心、証を開こうとする心を起こして、諸々の功徳をおさめて、浄土に生まれたいと思いなさい。臨終に、その人を取り囲むようにその人の前に阿弥陀仏、諸仏、菩薩が現れて下さると19願にあるのです。そのことを聞いてそれならやりましょうと思うのです。親鸞聖人はそのことを戒められているのです。なぜならそう思った人は仏智、阿弥陀仏の本願、18願を疑っているのです。法然聖人はその18願を念仏往生の願と言われます。(それに対して19願は諸行往生の願と言われます。)

法然聖人は、本願を信じ、念仏する人が往生するのだ。念仏一つで助かるのだと教えられました。そのことに対して、「念仏で助かる、諸善では助からない」ということはけしからんという人達からお釈迦様の教えを否定するのかと法然聖人に対する批判が上がりました。法然聖人が往生された後にも批判が起こりました。法然聖人は念仏には大変優れたはたらきがあると言われましたが、はっきりと結論を言われることはありませんでした。法然聖人の弟子の中にも諸行往生を言う人があらわれました。この念仏は念仏一つで救われていく他力の念仏である、と念仏一つを立てて、諸行は捨てなさいと親鸞聖人は教えられました。

念仏一つで助かると初めて聞くと、「これでいいのですか?」となるのです。それでは心許ないからです。そのままの救いと聞いても何かしなければダメだろうと思ってしまうのです。そのままとは私が私に手を出す必要がないと言うことです。自分は未熟であると思っても、未熟のままで救うのが阿弥陀仏の本願の救いです。

「自業自得の道理にて、七宝の獄に入る」とあります。そのような諸行往生の人はたとえ浄土に生まれたとしても、それは仏の姿を見ることのできない、仏の教えを聞くことのできない牢獄のようなところであるということです。それはちょうど悪いことをした転輪聖王のいるところは普通の人がいるようなところではないが宝の飾られた牢獄のようなところだと。ベッドの上から薄い布が降りていて囲まれているような状態であり、自由はないけれど苦しみも無いところである、と言われました。『大無量寿経』(画像の板書を御参照)には、たとえ菩薩がいても本願に疑いがあれば、大きな利益を失うと弥勒菩薩に教えられたとあります。19願には直接的にこのようには書かれていませんが、往ってみれば、本当の浄土ではない。それは疑いがあるからだと教えられました。親鸞聖人は仏智にまかせずに仏智以外の何かを信じることを、疑い、自力と言われます。

問題は、19願で言われる善をやりきることができるかどうかです。比叡山では出家した僧侶がこの世だけでは証を開くことはできないので浄土で修行を続けて証を開こうとしました。親鸞聖人は「願力成就の報土には 自力の心行いたらねば、、」と本願によって建てられた浄土には自力で参ることはできないと言われます。その修行はすべての人ができる修行ではないのです。たとえば体の弱い人ができるような修行ではないのです。だから「みづからおのれが能を思量せよ『教行証文類』」と知りなさいと言われます。『観無量寿経』には極重の悪人には善を勧められず、念仏一つを勧められています。

称える、口から出てくる念仏は私が称えると言ってもそれは南無阿弥陀仏となったはたらきが私の口から出て下さっている姿です。口から出てくる南無阿弥陀仏はすべての人を救うために南無阿弥陀仏なって下さった、その呼び声なのです。そのことを聞いて疑い無いのが信心です。自分が善人になって救われるのではありません。いつか助かるだろうと想像するのでもありません。偉い人になって助かるというボーダーを勝手に作り出すのではなく、南無阿弥陀仏という呼び声を聞いて疑いの無いのが信心であり、その人は浄土に往生することができるのです。以上 文責 好浦和彦

9月の「にしのみや聞法会」


(66) 信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
(正像末和讃·誡疑讃)

信心の人(真実信心の人)と疑心自力を対比して信心の人に劣らないように疑心自力の人も如来大悲の恩、阿弥陀仏の大慈悲の御恩を知り、称名念仏を一層称えなさいという和讃です。この和讃は二通りの読み方ができると思います。①疑心自力の人に疑ったままでもよいから念仏を称えなさい②疑心自力の行者も如来大悲の恩を知って一層称えなさい、の二通りがあります。

真実信心の人は如来大悲の恩を知っているので、同じようにその如来大悲の恩を知り真実信心の人となって称えなさいと言われるのです。それは真実信心の人は、阿弥陀仏の本願を聞いて疑いがないからです。『大無量寿経』には法蔵菩薩がすべての人の姿をご覧になられて、かわいそうに思われて慈悲の心を起こされ、生死から離れられない私達を何とか助けたいと本願を建てて下さいました、とあります。

その中心は十八願です。本願を信じて念仏申す人を必ず浄土往生させて、仏にしてみせるという誓いです。五劫という期間考えられて、兆載永劫という長い期間ご修行されて本願を完成され、この願と行の完成によって南無阿弥陀仏となって下さったのです。念仏するものを助ける本願なので念仏往生の願と言われます。至心信楽の願とも言われます。疑心自力の行者も念仏は称えていますが信心はよくわからないので二十願に目をつけるのです。二十願は植諸徳本の願と言われ、至心回向の願とも言われます。南無阿弥陀仏を称える功徳を阿弥陀仏に差し向けて浄土に往生しようとするのです。親鸞聖人はその二十願を方便であるとおっしゃいます。一生懸命に念仏を称えたら今生では無理でも、次の生で仏にしてみせる、必ず果たし遂げると思うのです。そして往生できると思っていて念仏を称えて行ってみたら化土だとわかるのが二十願だと親鸞聖人は教えられました。

化土でもよいからと思う人は実際は二十願の人ではありません。二十願には化土のことは書かれていないからです。親鸞聖人も比叡の山で二十九才までご修行されて、山を下りて法然聖人のもとに百ケ日通われました。念仏で往生できると思い、これだけ称えたのだから阿弥陀仏に助けてもらえると一生懸命に称えられたのだと思います。称えた功徳を差し向けるのは阿弥陀仏の大悲の恩を知っているということではありません。そもそも阿弥陀仏の本願は自力では生死から離れられない人を救うために建てられたのです。戒律を守る、人にやさしくする、親孝行をするなどの条件があればそれができない人は助かりません。どんな人でも等しく救われる本願にしてみせる。本願を信じて南無阿弥陀仏を称える人を、その南無阿弥陀仏のはたらきによって浄土に往生させて、仏にして見せるという本願を建てて下さったのです。

真実信心の人、疑心自力の人が南無阿弥陀仏を称えている姿を見ても同じではないかと思います。しかし信心の有る無しが違いであると『化身土巻』に書かれています。疑心自力の人は報土往生はできない。化土往生であると書かれています。化土とは七宝の獄であり、まわりにあらゆるものはあるが金の鎖でつながれる牢屋のようなところだと言われるのです。昔は、イネとヒエの関係で話されていました。植えたときこの二つは似ているが、取れるときは米とヒエと全然違うものになっているのです。念仏を称えている姿は同じに見えても、報土往生と化土往生の差があるのです。

親鸞聖人は三願転入の文で二十願の往生を離れて十八願の報土往生をさせて頂きたいと思いますと書かれています。

「建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」とも言われています。元々十八願の救いが二十願の形となって、果たし遂げると誓われ、四十八願のはたらきとしての本願のはたらき、他力のおかげで十八願の世界に転入したのだと言われるのです。

選択の願海に転入したと言っても、それは自力ではなく、どんな人でも必ず救うと誓われた十八願のはたらきに救いによります。しかし二十願のお育ては大変有り難いのです。親鸞聖人が念仏をしなさいと教えられた念仏は、十八願の念仏のことです。今念仏を称えている人も、その功徳を阿弥陀仏に差し向けるのが本当の念仏ではありません。南無阿弥陀仏自体が私を救って下さることをその通りに疑いなく聞いて如来大悲の恩を知り真実信心の人となって念仏を称えて下さい、という和讃です。

以上 文責 好浦和彦

9.10.11月「にしのみや聞法会」のご案内

9.10.11月「にしのみや聞法会」のご案内

響流会では親鸞聖人のみ教えに学ぶ講座 「にしのみや聞法会」を原則毎月開催しております。 下記の開催となっております。お忙しい中だとは思いますが、どうぞご聴聞してください。

日時

〇9月 24日(土) 時間:15時~ 16時半 (途中休憩)

場所:西宮市勤労会館 和室(会場前に案内を出しております)

講師:宮田 秀成 先生

持ち物:筆記用具 など

 

〇10月 29日(土) 時間:15時~16時半 (途中休憩)

場所:西宮市勤労会館 第二会議室 (会場前に案内を出しております)

講師:宮田 秀成 先生

持ち物:筆記用具 など

 

〇11月 26日(土) 時間:15時~16時半 (途中休憩)

場所:西宮市勤労会館 第一会議室 ※ご注意下さい。

講師:宮田 秀成 先生

持ち物:筆記用具 など

 

開催にあたり西宮市立勤労会館から勤労会館利用者への協力依頼として以下の条件が提示されております。

1.会場の利用可能人数内(定員の50%)での利用

2.原則マスクを着用 (各自ご用意ください)

3.利用の前後は手洗い、手指消毒を行う (消毒液は用意しています)

4.近距離での発声や会話は控える

5.体調不良や基礎疾患のある方は参加を控えてください

6.ご参加の方の住所、氏名、電話番号を控えさせていただくことがあります

テキストがある場合は会場に用意しておりますので、どうぞお気軽におこしください。コロナ対応等、中止、延期等変更がある時は響流会HP (https://kourukai.org/)等でお伝えいたします。

お問い合わせは18guguru@gmail.comまでお願い致します。 以上

7月の「にしのみや聞法会」

(62) 罪福信ずる行者は
仏智の不思議をうたがひて
疑城胎宮にとどまれば
三宝にはなれたてまつる
(正像末和讃·誡疑讃)

罪福を信じる行者とは善悪の因果を信じる人のことであり、人の思議を超える阿弥陀仏の智慧を疑い、あれこれとはからうので浄土に生まれられたとしても三宝(仏 法 僧)には遇えないところに留まるのだという意味になります。

罪とは悪い結果、苦果を引き起こす悪業のこと、福とは善い結果、楽果を引き起こす善業のことです。このことを信じることを信罪福といいます。行者とは念仏を称える人のことで出家して悟りを開く仏教はこの信罪福の考え方に基づいています。

阿弥陀仏が浄土を作って下さった、そして念仏して往生するのだと聞くと功徳のある南無阿弥陀仏を私が称えるのが善いことだから浄土に往生できると思ってしまうのです。だから1回よりも、10回よりも、100回、1000回、それよりも2000回、3000回と考えてしまいます。南無阿弥陀仏、念仏を自分の功徳とするのです。二十願は植諸徳本の願といわれて、あらゆる徳の本となる南無阿弥陀仏を称えて我が功徳にしてしまうのです。信罪の人は自分の悪業に目が向くので、ありのままで救われるとたとえ聞いたとしても信じられないのです。今の私を助けると聞いても今の私がそのまま助かる仏智の不思議が信じられないのです。念仏の功徳というよりは、自分の罪業を消してもらって、功徳を積み重ねて助かろうとするのです。今の私に阿弥陀仏のお力が届かないと思うのです。「善くなった自分」を想像してこれで阿弥陀仏に助けてもらえると思うのです。『教行証文類』に「罪福信ずる心をもって本願力を願求す」とあります。自分の行い、念仏をアテにして本願力で助かろうとすることです。救いをこちらから求めているのです。これは仏智の不思議を疑っているのです。もう少し頑張れば助けると言われたほうが信じられるのです。しかしそれでは本願に報いて出来上がった報土には往けません。『大無量寿経』にある「疑城胎宮」、お母さんのお腹の中、お母さんと一緒にいるけれど、お母さんの姿は見えないところに留まり、五百年の間三宝に遇えないと言われています。だから疑うなと言われるのです。

もちろん念仏するのが悪いのではありません。罪福を信じて念仏するのは、仏智を疑っているので悪いと言われるのです。南無阿弥陀仏を称えて、聞いているのですがその心の疑いは晴れないのです。称えて助かろうとしても安心はありません。助かったとも思えません。有難いとも思えません。結局は罪福も信じられないし、その気持ちそのものも本当のことと思えないのではないでしょうか。一日何万遍称えたら、の、「タラレバ」で今の私のままでは駄目だと自分ばかりを見て、阿弥陀仏を忘れているのです。

「本願を信じて念仏申す人は仏になる」と『歎異抄』にあります。すべての人を助けたいという法蔵菩薩はどんな悪人でも助けられる本願を建てられたのです。「○○しなさい。助ける」という本願なら、助かる人と助からない人に分かれます。法蔵菩薩は、私がすべて代わりに修行すると、私の代わりに兆載永劫の修行をして下さったのです。すべての人を助けたいという願、と兆載永劫の修行、その行によって成就、完成したのが阿弥陀仏の本願で、その願行が六字の中にあらわれたのが南無阿弥陀仏(蓮如上人)であると教えられたのです。南無阿弥陀仏となって、私のところまで来て呼びかけて下さる、その招喚の勅命が私の口から出て下さるのです。

蛇口から水が出てきても、蛇口だけを持ってきて蛇口(だけ)から水が出てくるとは誰も思っていません。念仏を称えていても自分の功徳と思うのは間違いです。本願力のはたらきが私の口から出ているのです。出処は本願力の方です。どれだけ称えても私の口から出たとは言いません。今どれだけ称えても、本願力が私にはたらいていると称えて聞いて疑いがないから、信じているということになるのです。称えて助かるのではなく、念仏しているのは本願力のはたらきです。どれだけ罪が深かろうが、どれだけ善いことをしていようが、南無阿弥陀仏に救われることとは関係がありません。疑いながらも、やがてどうにかなる、のではありません。今申す念仏は、阿弥陀仏が今のままの私を助けるという本願のはたらきです。

以上 文責 好浦和彦