4月22日にしのみや聞法会が開かれました。
記
·仏智を疑惑するゆえに 胎生のものは智慧もなし 胎宮にかならずうまるるを 牢獄にいるとたとえなり『正像末和讃』
·釈迦弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心はえしめたる 信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ『正像末和讃』
化土に生まれると長い間、仏を観れない、教えが聞けない、と『大無量寿経』にあります。そしてそれは仏智疑惑するからだと教えられています。仏智とは阿弥陀仏の智慧によって建てられた本願であり、その本願を疑う者はお母さんの胎内にいる胎児と同じでお母さんに一番近いところにいても、お母さんの顔を見れないし、声も聞こえない、そんな状態のことをいうのです。良いところではないので、牢獄にたとえられます。寒くもないし、鬼がいるのでもないのですが仏は観れないし、仏の話も聞けないのです。転輪王の王子が立派な牢獄に黄色い鎖で繋がれているともいわれます。
親鸞聖人は化土往生を勧めてはおられません。どうして化土に生まれるのかといえば智慧がないからです。ならば勉強して、よく聞いてと知恵を磨くのではありません。和讃の左訓には「弥陀のちかひは智慧にてましますゆゑに信ずるこころの出てくるは智慧のおこるとしるべし」とあります。
信心は智慧がおこって出てくるということです。端から信じられないというのは別にして、ここにある疑いとは私は浄土往生したい、仏になりたいという人に起こる疑いです。本願を聞いて、その通りと言えない状態です。阿弥陀仏の本願のことを念仏一つによってすべての人を往生させるので念仏往生の願と言います。
仏の智慧とはすべては平等であり、仏、人間、虫、魚、鳥の命の尊さは同じと観られることです。苦しんでいる私達は生死に迷っています。そんな者を放っておけず、仏と同じようにしてやりたいと仏に平等の慈悲が起こるのは、平等の智慧があるからてす。
人間だけに限定しても、平等の慈悲といってもなかなかわかりません。老少不定、善人悪人と聞くと、そう分けた瞬間にどちらかを上にして、どちらかを下に決めつけます。それが人間の知恵の性質です。頑張っているから早く救われるとか、これだけ長く聴いているからとか関係はありません。すべての人を同じように救うというのが仏の智慧であり念仏の救いです。そう聴くと、本当だろうかとい疑いが出てきます。念仏にそんな功徳があるとは思えない。ただ念仏だけでいいのだろうか?そう疑うのは法蔵菩薩が最も行じやすい行いとして選んで下さったことがわからないからです。やっぱり勉強しないといけないとか思うのです。何とか知識でわかろうとしてもそれで疑いが晴れるのではありません。信心は智慧から起こるのです。阿弥陀仏の本願は慈悲から起こされたのです。そしてその慈悲は智慧から起きたのです。
「苦悩の衆生を救済して」とあります。「救」は苦しみから救ってやりたいという意味で、「済」は等しい状態にすることです。その仏の智慧によって建てられたのが阿弥陀仏の本願です。
一般的に信心といえば心で信じることと思うのです。信心獲得とも言われますので、ではどうしたら信じられるのかと考えてしまいます。どうしたら疑いが晴れるのだろうかと思うのです。どちらかを決めることを留保、猶予するのが「疑い」という「言葉」の意味です。本願はこうだと聴いても一つに決まらない、決定しないから疑惑というのです。「信心一ならず決定なきゆゑに」というのはそういうことです。だから疑惑を二心ともいいます。一つではなく、自分がもう一つを持っているのです。真剣な念仏とか、念仏の回数とか何かを付け加えるのです。只今の救いと聴いても、「そうだったらいいけど、今日は無理だろう」とか一つに決まらないのです。
一つに決まるのは仏の智慧があるからです。阿弥陀仏が長い間考えられてこれしかないと決めて下さった、念仏一つの本願の救いだからです。その仏の智慧により、「その通りでございます。」と受け取ることができるのです。
私を助けるのと同時に疑いを晴らすはたらきがあるのです。聞いて疑い無いのが信心です。「信心は如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。」『一念多念証文』とあります。如来の智慧の本願の救いを聞いたら「あーその通りですね。」そのまま聞き入れたのが信心です。
これが信心だと言う人もいますがそれは長続きしません。私の心の中にあるのではなく、南無阿弥陀仏を聞き入れたところに、私の煩悩の中に仏のはたらきが起こるのです。決して私が悟るのではありません。
南無阿弥陀仏は私に「直ちに来たれ」とよびかけて、はたらいて下さるのです。その念仏、よびごえをその通りと聞かせて頂くことが、疑い無いということです。疑いが晴れたら聞けるのではありません。納得したら晴れるのではありません。納得できない人で知識で念仏一つとわかる人がいたらその人は仏と同じような人です。それが無理だから南無阿弥陀仏となってよびかけて下さるのです。南無阿弥陀仏はジッと黙っていたら聞こえてくるのではなく、称え、聞くのです。18願成就文にある「聞其名号」とは私が称えている名号を聞くことだといえます。お釈迦様はそのことを教えられ、阿弥陀様はそのように救って下さるのです。そして仏になりたいという願い、信心が起こってくるのだとこの和讃は教えられているのです。
文責 好浦和彦
以上