(62) 罪福信ずる行者は
仏智の不思議をうたがひて
疑城胎宮にとどまれば
三宝にはなれたてまつる
(正像末和讃·誡疑讃)
罪福を信じる行者とは善悪の因果を信じる人のことであり、人の思議を超える阿弥陀仏の智慧を疑い、あれこれとはからうので浄土に生まれられたとしても三宝(仏 法 僧)には遇えないところに留まるのだという意味になります。
罪とは悪い結果、苦果を引き起こす悪業のこと、福とは善い結果、楽果を引き起こす善業のことです。このことを信じることを信罪福といいます。行者とは念仏を称える人のことで出家して悟りを開く仏教はこの信罪福の考え方に基づいています。
阿弥陀仏が浄土を作って下さった、そして念仏して往生するのだと聞くと功徳のある南無阿弥陀仏を私が称えるのが善いことだから浄土に往生できると思ってしまうのです。だから1回よりも、10回よりも、100回、1000回、それよりも2000回、3000回と考えてしまいます。南無阿弥陀仏、念仏を自分の功徳とするのです。二十願は植諸徳本の願といわれて、あらゆる徳の本となる南無阿弥陀仏を称えて我が功徳にしてしまうのです。信罪の人は自分の悪業に目が向くので、ありのままで救われるとたとえ聞いたとしても信じられないのです。今の私を助けると聞いても今の私がそのまま助かる仏智の不思議が信じられないのです。念仏の功徳というよりは、自分の罪業を消してもらって、功徳を積み重ねて助かろうとするのです。今の私に阿弥陀仏のお力が届かないと思うのです。「善くなった自分」を想像してこれで阿弥陀仏に助けてもらえると思うのです。『教行証文類』に「罪福信ずる心をもって本願力を願求す」とあります。自分の行い、念仏をアテにして本願力で助かろうとすることです。救いをこちらから求めているのです。これは仏智の不思議を疑っているのです。もう少し頑張れば助けると言われたほうが信じられるのです。しかしそれでは本願に報いて出来上がった報土には往けません。『大無量寿経』にある「疑城胎宮」、お母さんのお腹の中、お母さんと一緒にいるけれど、お母さんの姿は見えないところに留まり、五百年の間三宝に遇えないと言われています。だから疑うなと言われるのです。
もちろん念仏するのが悪いのではありません。罪福を信じて念仏するのは、仏智を疑っているので悪いと言われるのです。南無阿弥陀仏を称えて、聞いているのですがその心の疑いは晴れないのです。称えて助かろうとしても安心はありません。助かったとも思えません。有難いとも思えません。結局は罪福も信じられないし、その気持ちそのものも本当のことと思えないのではないでしょうか。一日何万遍称えたら、の、「タラレバ」で今の私のままでは駄目だと自分ばかりを見て、阿弥陀仏を忘れているのです。
「本願を信じて念仏申す人は仏になる」と『歎異抄』にあります。すべての人を助けたいという法蔵菩薩はどんな悪人でも助けられる本願を建てられたのです。「○○しなさい。助ける」という本願なら、助かる人と助からない人に分かれます。法蔵菩薩は、私がすべて代わりに修行すると、私の代わりに兆載永劫の修行をして下さったのです。すべての人を助けたいという願、と兆載永劫の修行、その行によって成就、完成したのが阿弥陀仏の本願で、その願行が六字の中にあらわれたのが南無阿弥陀仏(蓮如上人)であると教えられたのです。南無阿弥陀仏となって、私のところまで来て呼びかけて下さる、その招喚の勅命が私の口から出て下さるのです。
蛇口から水が出てきても、蛇口だけを持ってきて蛇口(だけ)から水が出てくるとは誰も思っていません。念仏を称えていても自分の功徳と思うのは間違いです。本願力のはたらきが私の口から出ているのです。出処は本願力の方です。どれだけ称えても私の口から出たとは言いません。今どれだけ称えても、本願力が私にはたらいていると称えて聞いて疑いがないから、信じているということになるのです。称えて助かるのではなく、念仏しているのは本願力のはたらきです。どれだけ罪が深かろうが、どれだけ善いことをしていようが、南無阿弥陀仏に救われることとは関係がありません。疑いながらも、やがてどうにかなる、のではありません。今申す念仏は、阿弥陀仏が今のままの私を助けるという本願のはたらきです。
以上 文責 好浦和彦