7月「にしのみや聞法会」のお話

真実信心の称名は

弥陀回向の法なれば

不回向となづけてぞ

自力の称念きらはるる

(正像末和讃)

 

親鸞聖人の教えは念仏で救われる教えです。浄土に生まれて救われるのは念仏によるものと教えていかれました。その念仏には二通りのもの、真実信心をともなう他力の念仏と、そうではない自力の念仏があります。

 

聖人は「真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。」とも教えられ、蓮如上人は「信心をもって本とせられ候。」と信心が聖人の教えであると言われています。また聖人は「信心定まるとき、往生も定まるなり。」と真実信心が定まったときに、往生が定まると言われています。信心が定まると言っても、心で「そうですか。そうなんですね。」と私が何かを思うこと、信じ込むことではありません。何を信じたことが真実信心なのか。真実信心とは阿弥陀仏の本願を信じたことです。阿弥陀仏が私に回向、差し向けて下さる救いのはたらきである信心を真実信心、その念仏を他力の念仏と言います。

 

私がお願いする前から先立って建てられたのが阿弥陀仏の本願です。すべての人を浄土に往生させて仏にしてみせるという願いのことです。生死流転から自分の力では離れられない私たちを見捨てられない阿弥陀仏の大慈悲心から、私が南無阿弥陀仏となって直接あなたのところに助けに行きます、と建てて下さったのです。阿弥陀仏の本願はただの約束、願いではありません。願った通りに成就して、そのはたらきは既にあります。南無阿弥陀仏となってすべての人のところに回向されています。私たちの口から出る南無阿弥陀仏は弥陀回向の法ですよと教えられ、また本願召喚の勅命とも言われます。私に「浄土に参りなさい。直ちに来なさい。」と呼び掛けて下さること、その阿弥陀仏の名のり、南無阿弥陀仏に疑いのないのを真実信心と言います。阿弥陀仏の名のりのない信心はありません。

 

不回向とは私から回向しないことであり、法然聖人のお言葉にあります。それまでは私たちから阿弥陀仏に助けてもらうために念仏を称えるのだと思われていました。南無阿弥陀仏には仏のすべてのお徳が入っています。私たちの側から何かを付け加える必要はありません。申請してから阿弥陀仏に助けてもらう救いではありません。正信偈にあるように、世自在王仏の前で誓われ、仏と仏の御はからいなりと言われるように私からお願いして建てられた本願ではありません。出発点は私ではなく阿弥陀仏です。そのように聞いて「そうは言っても」というのを疑い、はからいと言います。親鸞聖人は他力の念仏のことを「ただ念仏」と仰っておられます。念仏の回数や、称え心を問題にすれば称えた功徳を気にしている自力の念仏になります。すべて阿弥陀仏から回向されたものと聞いて「ただ念仏」と称えるのが他力の念仏です。以上

 

 

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