9月「にしのみや聞法会」のご案内

9月「にしのみや聞法会」のご案内

響流会では親鸞聖人のみ教えに学ぶ講座 「にしのみや聞法会」を毎月開催(1月と8月は休会)しております。
9月につきましては下記の開催となっております。お忙しい中だとは思いますが、どうぞご聴聞してください。

日時:9月 25日(土)

時間:午後 15時~午後 16時半 (途中休憩)

場所:西宮市勤労会館 3階 第 2会議室 (会場前に案内を出しております)

講師:宮田秀成 先生

持ち物:筆記用具 など

開催にあたり西宮市立勤労会館から勤労会館利用者への協力依頼として以下の条件が提示されております。

1.会場の利用可能人数内(定員の50%)での利用
2.原則マスクを着用 (各自ご用意ください)
3.利用の前後は手洗い、手指消毒を行う  (消毒液は用意しています)
4.近距離での発声や会話は控える
5.体調不良や基礎疾患のある方は参加を控えてください
6.ご参加の方の住所、氏名、電話番号を控えさせていただきます

 

テキストがある場合は会場に用意しておりますので、どうぞお気軽におこしください。

お問合せは「お問合せ」フォームからお問合せいただくか、メールにてお問い合わせください。

1月と8月 休会とさせていただきます。変更がある時はお伝えいたします。

よろしくお願い申し上げます。

お問い合わせは、響流会HP (http://kourukai.org/) のお問い合わせ欄までお願い致します。

響流会

7月「にしのみや聞法会」のお話

55 聖道門のひとはみな

自力の心をむねとして

他力不思議にいりぬれば

義なきを義とすと信知せり

(正像末和讃)

 

聖道門の人はみな自力の心を、中心、根本にしているが他力の不思議に入ったなら義なきを義とすると知らされるのだという意味です。

 

親鸞聖人は今から750~800年程前の方ですが、その当時は仏教には天台、真言、華厳などの宗派があり、浄土真宗はありませんでした。親鸞聖人の師匠は浄土宗を開かれた法然上人で、親鸞聖人は浄土真宗を作りました、と言われずに、法然上人の教えをお伝えするという立場でした。親鸞聖人は、宗派ではなく阿弥陀仏の本願のことを浄土真宗と言われました。

 

法然上人は二つの仏教があると言われました。一つは聖道門、そしてもう一つは浄土門であると。

当時の日本は多くの人は、仏教とは出家して、戒律を守り、修行して、煩悩を無くして、智慧を得て、悟りを開く聖道門が仏教であると思っていました。自力の仏教ともいわれ、自分の力で、自分の弱い心に打ち克つといえば大変分かりやすいのです。

それに対して自分で打ち克つことのできない人は、阿弥陀仏の誓われた本願の力によって迷いを離れ、浄土に生まれて、仏になるというのが浄土門の教えです。自力に対して他力の教えと言われます。他力とは私を救って下さる阿弥陀仏の本願の御力のことです。

 

法然上人も親鸞聖人も元々聖道門の方です。長い間修行に頑張って来られたのですが、「私は救われなかった。三学の器ではなかった」と法然上人は仰っておられます。そんな時に、善導大師の書物を読まれて、念仏のはたらきによって救われるという教えに出遇われたのです。そして教えはあっても、修行する者はいない、悟りを開く者もいないという末法の時代には、浄土門の教えでなければ救われないと教えて下さったのです。

 

現代の人もほとんど皆自力の人ではないでしょうか。

親鸞聖人は『御消息』に、「義といふは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふ。」と仰っておられます。その自力の心を中心、根本とするのが行者のはからひです。自分の力で自分の心に打ち克つという自己を中心とするわかりやすい教えです。

それに対して他力の救いはわかりにくいところがあります。私達人間は、生死を果てしなく繰り返しています。仏教では死んだら終わりとは、教えません。死んだら無常の世界でまた何かに生まれ変わり、死んでいくということを繰り返していくのです。そこから自分の力で離れていくのが聖道門の教えですが、そんなことができない人のために、阿弥陀仏は五劫という長い間考えて下さったのです。阿弥陀仏は私が、南無阿弥陀仏となって、あなたのところに行くので、そのよび声を聞いて信じて南無阿弥陀仏と称える人は必ず救うという本願を建てて下さったのです。

 

よくよく考えると、私はなにもしていない、何かしたら助かるという教えの方がわかりやすいのではないでしょうか。聖道門の人はなぜ浄土門の教えで救われるのがなかなかわからないのです。浄土門は仏教を破壊しているのだとか、仏教を知らない大衆を騙しているのだと言う人もいました。本願を信じて念仏する者は必ず救うという本願の救いは、私達の代わりに阿弥陀仏が兆載永劫という長い間、修行をして、願行が揃い成就、南無阿弥陀仏が完成したのです。

 

南無阿弥陀仏とは浄土に生まれなさいというよび声です。南無とは帰命ということで帰せよという阿弥陀仏の一方的な命令だと親鸞聖人は仰っておられます。そしてそのよび声を聞いたのが信心です。義とは「はからひ」のことです。「はからひ」のないのが本義、本当の意味であるということです。義は、「宜」とも言われます。「宜」とは私がわかるように判断するということなのですが他力の教えはもうわかったということがありません。

 

蓮如上人の『御一代記聞書(88)』に、法座の場では有り難くても、そこから離れるとその気持ちは無くなってしまうという人に対して、他力の教えにおいては、あれこれわかろうとすることから離れよ。籠を水に漬けて、籠を掴むその手を放せば、籠から水がこぼれないように、もう南無阿弥陀仏から離れることはないのだと教えておられます。義なきことを義とすると信知する、明らかに知らされるのだということです。

 

7月「にしのみや聞法会」のご案内

7月「にしのみや聞法会」のご案内

響流会主催「にしのみや聞法会」を毎月1度開催しております。

つきましては下記の開催となっております。お忙しい中だとは思いますが、どうぞご聴聞してください。

 

日時:7月 24日(土)

 

時間:午後 15時~午後 16時半 (途中休憩)

場所:西宮市勤労会館 3階 第 2会議室 (会場前に案内を出しております)

講師:宮田秀成 先生

持ち物:筆記用具 など

 

※マスクの着用をお願いします。

※受付にて氏名、住所、電話番号の記帳をお願いしております。
(コロナ感染症が出た場合に即座に対応できるよう勤労会館からの指示です。)

 

テキストがある場合は会場に用意しておりますので、どうぞお気軽におこしください。

お問合せは「お問合せ」フォームからお問合せいただくか、メールにてお問い合わせください。

1月と8月 休会とさせていただきます。変更がある時はお伝えいたします。

よろしくお願い申し上げます。

お問い合わせは、響流会HP (http://kourukai.org/) のお問い合わせ欄までお願い致します。

響流会

6月「にしのみや聞法会」のお話

 

(54)弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな

ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし

 

前回(53)の引き続きの御和讃となります。

阿弥陀仏は有り難い仏様ではあるけれど、阿弥陀経にあるようにどこか遠くに在しますのかというとそうではありません。大願のふねに乗って助けるとよび続けて下さっています。阿弥陀仏が苦しみの海に沈んでどうにもできない私達の苦しみを抜き、楽にしてやりたいと大慈悲を起こして下さったのです。阿弥陀仏の慈悲は人間の慈悲とは違って無縁の人でも自分のこととしてかわいそうだと慈悲の心を起こして下さるのです。

 

昨日まで元気だと言っても私達の命はいつどうなるかわかりません。やっと安心できたと言ってもそれが続かないのです。そして仏教では死んでも別のものに生まれると言われます。その生死を繰り返して際限がありません。その私達をご覧になられて阿弥陀仏が何とか助けてやりたいと大慈悲を起こされたのです。生死の海に沈んでいるすべての人を救うために、まず浄土という所を作って往生させて、生死から離れさせて、仏にしてみせるという誓願を興されたのです。

「私(阿弥陀仏)が南無阿弥陀仏となってあなたによび掛けますので、そのよび声を聞いた人は、その通りに信じてください。その人を必ず浄土に生まれさせて仏にしてみせます。」という本願です。

 

南無阿弥陀仏は名のりのことであり、名号と言います。阿弥陀仏は兆載永劫の修行をされて、誓願は願われた通りになりました。本願成就と言います。すべての人を助けると聞くと、いいことですね、いつかはそれが完成するかと想像したり、いつかは皆が助かるという話だと思ってしまいます。しかし生死の苦海に沈んでいる人を必ず浄土に往生させるという本願は既に完成しています。

成就した本願を深く信じる人は皆が浄土へ往生することができます。具体的には、南無阿弥陀仏という名号となって、よばう、私達によび続けておられるのです。私の口から念仏、南無阿弥陀仏となってあらわれてくるのです。

そのよび声を聞いて、そうでございますか。有難うございます、と言える人はいいのですが、本当ですかね、それで助かるのでしょうか、と疑ってしまうのです。それでも南無阿弥陀仏となってよび続けて下さるのです。

南無阿弥陀仏が名前になったことで、私達は、聞くことができるように、称えることができるようになったのです。

 

教行信証の行巻の元照律師のお言葉「(わが)弥陀は名をもって物を接したまふ。ここをもって耳に聞き、口に誦するに無辺の聖徳、心識に攬入する。」数限りの無い名号のお徳が私達の心に満ち足りて下さるのです。名号度生の法、名号で衆生を済度する法と言います。

名となって、名号となってよび続けて下さることをそのまま聞いて、疑いの無いことを信心、信と言います。

そのまま聞いて、疑いのない人はみな漏らさず、寝ても覚めても隔てなく、変わらず南無阿弥陀仏を称えるのですよ、と言われます。となふべし、の「べし」は元々「うべ」という言葉から来ています。「うべ」は中世以降、「むべ」と言われ、当事者の意思に関わらず、そうなることが当然という意味です。深く信じる人はみな当然そうなる、南無阿弥陀仏を称えるのだという意味になります。

 

親鸞聖人の「真実信心 必具名号」というお言葉があります。深く信じる人は必ず名号が伴うと言われています。この後に「名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」とあるのでここにある名号とは、称名念仏のことです。念仏を称えていても願力の信心を伴っていない人がいるということです。信心あっての念仏ですがそうではない人がいるのです。深く信じる人は縁に触れて南無阿弥陀仏が口から出てくるのだと言われています。

自動的に口から出るのではなく、努力は必要ですが、その口からあらわれるのは、南無阿弥陀仏の、おはたらきです。

 

 

6月「にしのみや聞法会」のご案内

6月「にしのみや聞法会」のご案内

響流会主催「にしのみや聞法会」を毎月1度開催しております。

つきましては下記の開催となっております。お忙しい中だとは思いますが、どうぞご聴聞してください。

 

日時:6月 26日(土)

時間:午後 15時~午後 16時半 (途中休憩)

場所:西宮市勤労会館 2階  和室 (会場前に案内を出しております)

講師:宮田秀成 先生

持ち物:筆記用具 など

 

※マスクの着用をお願いします。

※受付にて氏名、住所、電話番号の記帳をお願いしております。
(コロナ感染症が出た場合に即座に対応できるよう勤労会館からの指示です。)

 

テキストがある場合は会場に用意しておりますので、どうぞお気軽におこしください。

お問合せは「お問合せ」フォームからお問合せいただくか、メールにてお問い合わせください。

1月と8月 休会とさせていただきます。変更がある時はお伝えいたします。

よろしくお願い申し上げます。

お問い合わせは、響流会HP (http://kourukai.org/) のお問い合わせ欄までお願い致します。

響流会

5月「にしのみや聞法会」のお話

弥陀観音大勢至 大願のふねに乗じてぞ 生死のうみにうかみつつ 有情をよぼうてのせたまう(正像末和讃)

 

弥陀観音大勢至と古いお寺などに行くと阿弥陀三尊像があります。阿弥陀仏が中央に、両脇に苦しむ者の声を音として聞いて下さる慈悲の観音菩薩、そして智慧をあらわした大勢至菩薩です。その御三方が船に乗られてとありますが船とは、阿弥陀仏の本願のことです。生死の海にいる、沈んでいる有情と言われるのが生死を際限なく繰り返している私達のことです。小さな川なら溺れることはありませんが、深い海なら溺れてしまいます。

 

コロナ禍ですが、一年前と比べて感染者が一桁多くなりました。死が身近に感じられるようになってきたかもしれません。死んだらすべてが終わりだと言う人がいるかもしれませんが、仏教では死んだら終わりではない、死んだらまた何かに生まれ、際限なく生死を繰り返すと言われます。その生死の苦しみから離れられない私達をそこから離れさせてやりたい、苦しみを抜いて楽にさせてやりたいと慈悲の心を阿弥陀仏が起こされたのです。浄土を作られ、海に沈んでいる私達を船に引き上げて、浄土に往生させるという願いを建てられたのです。願いと言っても、ただの願い、掛け声ではありません。

生死の海を渡して、浄土に往生させ、成仏させるという本願は既に成就しています。弥陀観音大勢至の御三方がその船に乗られて「あなたを助けに来ました」と私達によびかけて下さっているのです。そして私達を船に乗せて下さるのです。

普通は仏、神に助けてもらうと言っても、助けてもらうこちらからお願いをしなければならないと思っているのですが、阿弥陀仏の方から私に近づいて、私に「助けに来た」とよび続けて、乗せて下さるのです。

 

阿弥陀仏は南無阿弥陀仏とよびかけて下さるのです。南無阿弥陀仏という称名念仏は、ただの声、呪文ではありません。親鸞聖人は、阿弥陀仏が有情をよび続けて下さる声と言われます。普通は仏、神に対してなら出家する、お経を読む、学問をする、戒律を守ると助けられる側から何かをしてお願いをします。確かにそれができる人は助かるかもしれませんが世の中はそれが出来ない人も沢山います。コロナ禍で頑張れる飲食店もありますが、これ以上頑張れないお店も必ず出てきます。ひとり残らず、漏れなく浄土往生できるというのが阿弥陀仏の本願です。ここまで頑張れる人なら助けられるという基準があると助からない人が出てきます。

 

南無阿弥陀仏という、よび掛けを聞いてどうか称えて下さい。そしてそのよび声が私を助ける、浄土に往生させるというよび声だと信じて称えて下さい。本当に苦しいときは声をあげられないものです。苦しくてなかなか声をあげられない私達の声を聞いて下さっている観音菩薩は無明の闇を晴らす太陽のような日天子であり、勢至菩薩は生死の闇を破る月天子と親鸞聖人は言われます。生死の海から逃れられない私がひとたび船に乗せられると、必ず浄土往生ができるのです。それは今まで仏法を聞いていない人も、長年聞いてきた人も同じで差別はありません。南無阿弥陀仏と、私がよばれていることを聞いて、疑いなく、信心が定まった人は船に乗ったということです。頑張れる人も、そうでない人も必ず助けるという本願です。

 

南無阿弥陀仏の、「南無はたのむ、あて力にしなさい」、「阿弥陀仏は、必ず助ける仏様」ということです。

「我をたのめ、必ず救う、助ける」と聞いて、疑いないのが信心です。助かったということです。

今回は和室です

 

 

 

 

5月「にしのみや聞法会」のご案内

5月「にしのみや聞法会」のご案内です

 現在、西宮市は新型コロナ感染症の蔓延により緊急事態宣言が発令中です。 それに伴い「にしのみや聞法会」で会場としている西宮市立勤労会館は先月26日から今月11日まで閉館の措置が採らることになりました。そして、11日以降に関しては『条件付きでの開催』で開催可能という事で今月の「にしのみや聞法会」は開催することにいたします。

日時:5月 22日(土)

時間:午後 15時~午後 16時半 (途中休憩)

場所:西宮市勤労会館 2階  和室 (会場前に案内を出しております)

講師:宮田秀成 先生

持ち物:筆記用具 など

 

※マスクの着用をお願いします。

※受付にて氏名、住所、電話番号の記帳をお願いしております。
(コロナ感染症が出た場合に即座に対応できるよう勤労会館からの指示です。)

 

テキストがある場合は会場に用意しておりますので、どうぞお気軽におこしください。お問合せは「お問合せ」フォームからお問合せいただくか、メールにてお問い合わせください。

※1月と8月 休会とさせていただきます。変更がある時はお伝えいたします。

よろしくお願い申し上げます。

お問い合わせは、響流会HP (http://kourukai.org/) のお問い合わせ欄までお願い致します。

響流会

 

4月「にしのみや聞法会」のお話

(49)無始流転の苦をすてて

無上涅槃を期すること

如来二種の回向の

恩徳まことに謝しがたし

(正像末和讃)

無始流転の苦しみから離れて、この上ない仏の証を開かせて頂ける浄土真宗の救いとは何か。阿弥陀仏は、人間は始まりのないずっと前から苦しみ、流転を重ねてきたと観られ、善導大師は、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなし」とご自身を観られました。常に苦しみの海に沈んでいる。今までも、今も、これからもずっと続くということです。そのことを憐れに観られた阿弥陀仏は私達をその苦しみから離れさせる、その苦しみを抜いてみせるという阿弥陀仏の本願を建てられました。

そしてその苦しみから離れた人はどうなるのか。阿弥陀仏のお浄土に生まれさせて、成仏させるというのが阿弥陀仏の本願です。

とは言っても、私達はお浄土のことを教えて下さる方がいなければ往生したいという気持ちも起きません。そこで阿弥陀仏が主体となり、私達に二つの回向をして下さるのです。一つは往相回向、二つには還相回向です。

往相回向とは、往生させる姿のことで、往生させると私達にはたらいて下さるのです。『教行信証』に「往相の回向について真実の教・行・信・証あり。」とあります。また『大無量寿経』に真実の教えがあると言われ、阿弥陀仏の本願のあること、どのように往生させるのか、成仏させるかが書かれています。行とは南無阿弥陀仏、念仏のこと、信とはそのはたらき、証とは、往生して仏の証を開くと教えられています。

浄土に往生したらどうなるのか。成仏したら浄土に座っているわけではなく、苦しむ人を救うために娑婆に還ってくるのです。『浄土和讃』には、「安楽浄土にいたるひと 五濁悪世にかえりては 釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし」と浄土に往生した人はお釈迦様のように仏となって人びとを利益する、救うとあります。この二種の回向によって私は苦しみを捨てて、無上の仏の証を開かせて頂くことができるので、そのご恩には感謝が尽きないという意味です。

往相は分かりやすいが還相は分かりにくいと言う人がいます。還相は遠い将来のことではなく、今、浄土から衆生を救うために還ってきて下さっているのです。親鸞聖人は、お釈迦様、七高僧も、そのお師匠の法然聖人も浄土からあらわれた方々と本当にそう思っておられました。真宗の人、特に本願寺系の人は蓮如上人にもそう思っておられると思います。阿弥陀仏はお釈迦様があらわれる前からいらっしゃるのですが、お釈迦様から想像てはなく仏の智慧によってはじめてそのことを聞かせて頂くことができます。教えを説かれる人から還相のはたらきを頂いていることがわかるのです。

『教行信証』の最後の方に、「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。何となれば、前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。」とあります。前(さき)に生まれた人は後に生まれた人を導いていきます。後に生まれた人は前の人に訪ねていって下さい。もし私が浄土に往生して仏になる身となったのなら、それは浄土から還ってきた方に導かれたということであり、苦しむ人がみな往生できるまでずっと続くのだ、と親鸞聖人は教えて下さったのです。

阿弥陀仏は南無阿弥陀仏となって私達に呼び掛けて下さっています。南無阿弥陀仏が私達を助けて下さるはたらきであると信じる人を助ける本願です。称名念仏はただの声ではありません。阿弥陀仏が私達に差し向けて下さる往相のはたらきなのです。信心とは聞いて疑いのないことです。いつでもどこでもどんな人でも南無阿弥陀仏は私を往生させて下さるはたらきと疑いが無くなれば必ず救われる本願です。

 

 

4月「にしのみや聞法会」ご案内

4月の「にしのみや聞法会」のご案内が遅れまして申し訳ございません。

 現在、西宮市のある兵庫県は新型コロナ感染症が非常に蔓延しており、その為にお寺などの会場の聞法会では中止や延期の処置がとられているケースもあります。

「にしのみや聞法会」の会場である西宮市立勤労会館ではまだ閉鎖の措置はないということで予定通り4月24日(土曜日)の「にしのみや聞法会」は開催いたします。

尚、お越しの際はマスクの着用、受付での消毒などの感染対策をしていただくようよろしくお願い申し上げます。

※ はがきでの案内を希望されている方にはご連絡を行き届かなったことをお詫 びいたします。

 

響流会

 

3月「にしのみや聞法会」のお話

(48)不思議の仏智を信ずるを

報土の因としたまへり

信心の正因うることは

かたきがなかになほかたし

(正像末和讃)

 

私達が思議することも、想像することもできない仏智の不思議を信じることを阿弥陀仏は報土の因、浄土往生の因として下さったのです。報土とは因に報いて阿弥陀仏の本願によって建てられた浄土のことです。その信心を獲ることは、難きが中にもなお難いと言われています。

 

仏の智慧とは、阿弥陀仏の智慧のはたらきのことです。阿弥陀仏の智慧のはたらきを光明と言います。聖人は尽十方無礙光如来と、どこへ行ってもおられない世界がない、障りなく救って下さる仏様と呼ばれています。我々に悪業、煩悩があってもそれが障りにならないのが阿弥陀仏の救いです。色も形もなく、想像できないはたらきを光明と言われました。だからその救いは大変不思議であると言われます。

 

例えば仏教で悪とされる殺生をする者も必ず浄土に往生させるという不思議な救いなのです。

地獄一定と言われる者に、あなたの還るところだとして浄土を用意して下さったのです。

そして条件なく、例外なく救うという本願を建てて下さったのです。

 

その本願には、念仏する者を必ず浄土往生させると誓われています。その本願を信じることが報土の因となります。そんな簡単なことなのですか、という意見が出そうですが、信心を獲ることは難きが中にもなお難いと大無量寿経に、そして阿弥陀経には極難信とあります。

「正信偈」には「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」とあります。一方「御文章」には「心やすの安心、往きやすの浄土」とも言われます。阿弥陀仏の本願が成就して、南無阿弥陀仏と呼び掛けて下さっている本願力回向、他力回向によって南無阿弥陀仏を聞いて疑いないことが信心です。わたしの側から何かしなければならないという救いではありません。私が何かお願いする前に既に与えられているのです。しかし私はどうしたら助かるのですか、と自分で取りにいこうとするから難しくなるのです。工程という考え方で言うならば、工程は一つです。阿弥陀仏の呼び掛けをただ聞くだけです。

あっちこっち聞きに行くとか、心をおちつかせるとか念仏を称えるとか、何か私がしなければ信心が頂けないと思ってしまうのです。それは仏智を否定していることてあり、疑い、自力の信と言われます。助かろうと私の側から始めようとするのです。

 

才市という人は、「胸にさかせた信の花、弥陀にとられて」と信心を頂くのは、私の側から何かすることではないと言われました。

疑い無いことを無疑と言います。疑いが無いのは助けるという呼び掛けを聞いたからです。自分の側から押し通そうとしても無理です。この道を進んで助けてもらおうという道はありません。必ず助けるということをただ聞いて頂きたいと思います。