9月の「にしのみや聞法会」


(66) 信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
(正像末和讃·誡疑讃)

信心の人(真実信心の人)と疑心自力を対比して信心の人に劣らないように疑心自力の人も如来大悲の恩、阿弥陀仏の大慈悲の御恩を知り、称名念仏を一層称えなさいという和讃です。この和讃は二通りの読み方ができると思います。①疑心自力の人に疑ったままでもよいから念仏を称えなさい②疑心自力の行者も如来大悲の恩を知って一層称えなさい、の二通りがあります。

真実信心の人は如来大悲の恩を知っているので、同じようにその如来大悲の恩を知り真実信心の人となって称えなさいと言われるのです。それは真実信心の人は、阿弥陀仏の本願を聞いて疑いがないからです。『大無量寿経』には法蔵菩薩がすべての人の姿をご覧になられて、かわいそうに思われて慈悲の心を起こされ、生死から離れられない私達を何とか助けたいと本願を建てて下さいました、とあります。

その中心は十八願です。本願を信じて念仏申す人を必ず浄土往生させて、仏にしてみせるという誓いです。五劫という期間考えられて、兆載永劫という長い期間ご修行されて本願を完成され、この願と行の完成によって南無阿弥陀仏となって下さったのです。念仏するものを助ける本願なので念仏往生の願と言われます。至心信楽の願とも言われます。疑心自力の行者も念仏は称えていますが信心はよくわからないので二十願に目をつけるのです。二十願は植諸徳本の願と言われ、至心回向の願とも言われます。南無阿弥陀仏を称える功徳を阿弥陀仏に差し向けて浄土に往生しようとするのです。親鸞聖人はその二十願を方便であるとおっしゃいます。一生懸命に念仏を称えたら今生では無理でも、次の生で仏にしてみせる、必ず果たし遂げると思うのです。そして往生できると思っていて念仏を称えて行ってみたら化土だとわかるのが二十願だと親鸞聖人は教えられました。

化土でもよいからと思う人は実際は二十願の人ではありません。二十願には化土のことは書かれていないからです。親鸞聖人も比叡の山で二十九才までご修行されて、山を下りて法然聖人のもとに百ケ日通われました。念仏で往生できると思い、これだけ称えたのだから阿弥陀仏に助けてもらえると一生懸命に称えられたのだと思います。称えた功徳を差し向けるのは阿弥陀仏の大悲の恩を知っているということではありません。そもそも阿弥陀仏の本願は自力では生死から離れられない人を救うために建てられたのです。戒律を守る、人にやさしくする、親孝行をするなどの条件があればそれができない人は助かりません。どんな人でも等しく救われる本願にしてみせる。本願を信じて南無阿弥陀仏を称える人を、その南無阿弥陀仏のはたらきによって浄土に往生させて、仏にして見せるという本願を建てて下さったのです。

真実信心の人、疑心自力の人が南無阿弥陀仏を称えている姿を見ても同じではないかと思います。しかし信心の有る無しが違いであると『化身土巻』に書かれています。疑心自力の人は報土往生はできない。化土往生であると書かれています。化土とは七宝の獄であり、まわりにあらゆるものはあるが金の鎖でつながれる牢屋のようなところだと言われるのです。昔は、イネとヒエの関係で話されていました。植えたときこの二つは似ているが、取れるときは米とヒエと全然違うものになっているのです。念仏を称えている姿は同じに見えても、報土往生と化土往生の差があるのです。

親鸞聖人は三願転入の文で二十願の往生を離れて十八願の報土往生をさせて頂きたいと思いますと書かれています。

「建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」とも言われています。元々十八願の救いが二十願の形となって、果たし遂げると誓われ、四十八願のはたらきとしての本願のはたらき、他力のおかげで十八願の世界に転入したのだと言われるのです。

選択の願海に転入したと言っても、それは自力ではなく、どんな人でも必ず救うと誓われた十八願のはたらきに救いによります。しかし二十願のお育ては大変有り難いのです。親鸞聖人が念仏をしなさいと教えられた念仏は、十八願の念仏のことです。今念仏を称えている人も、その功徳を阿弥陀仏に差し向けるのが本当の念仏ではありません。南無阿弥陀仏自体が私を救って下さることをその通りに疑いなく聞いて如来大悲の恩を知り真実信心の人となって念仏を称えて下さい、という和讃です。

以上 文責 好浦和彦

9.10.11月「にしのみや聞法会」のご案内

9.10.11月「にしのみや聞法会」のご案内

響流会では親鸞聖人のみ教えに学ぶ講座 「にしのみや聞法会」を原則毎月開催しております。 下記の開催となっております。お忙しい中だとは思いますが、どうぞご聴聞してください。

日時

〇9月 24日(土) 時間:15時~ 16時半 (途中休憩)

場所:西宮市勤労会館 和室(会場前に案内を出しております)

講師:宮田 秀成 先生

持ち物:筆記用具 など

 

〇10月 29日(土) 時間:15時~16時半 (途中休憩)

場所:西宮市勤労会館 第二会議室 (会場前に案内を出しております)

講師:宮田 秀成 先生

持ち物:筆記用具 など

 

〇11月 26日(土) 時間:15時~16時半 (途中休憩)

場所:西宮市勤労会館 第一会議室 ※ご注意下さい。

講師:宮田 秀成 先生

持ち物:筆記用具 など

 

開催にあたり西宮市立勤労会館から勤労会館利用者への協力依頼として以下の条件が提示されております。

1.会場の利用可能人数内(定員の50%)での利用

2.原則マスクを着用 (各自ご用意ください)

3.利用の前後は手洗い、手指消毒を行う (消毒液は用意しています)

4.近距離での発声や会話は控える

5.体調不良や基礎疾患のある方は参加を控えてください

6.ご参加の方の住所、氏名、電話番号を控えさせていただくことがあります

テキストがある場合は会場に用意しておりますので、どうぞお気軽におこしください。コロナ対応等、中止、延期等変更がある時は響流会HP (http://kourukai.org/)等でお伝えいたします。

お問い合わせは18guguru@gmail.comまでお願い致します。 以上

7月の「にしのみや聞法会」

(62) 罪福信ずる行者は
仏智の不思議をうたがひて
疑城胎宮にとどまれば
三宝にはなれたてまつる
(正像末和讃·誡疑讃)

罪福を信じる行者とは善悪の因果を信じる人のことであり、人の思議を超える阿弥陀仏の智慧を疑い、あれこれとはからうので浄土に生まれられたとしても三宝(仏 法 僧)には遇えないところに留まるのだという意味になります。

罪とは悪い結果、苦果を引き起こす悪業のこと、福とは善い結果、楽果を引き起こす善業のことです。このことを信じることを信罪福といいます。行者とは念仏を称える人のことで出家して悟りを開く仏教はこの信罪福の考え方に基づいています。

阿弥陀仏が浄土を作って下さった、そして念仏して往生するのだと聞くと功徳のある南無阿弥陀仏を私が称えるのが善いことだから浄土に往生できると思ってしまうのです。だから1回よりも、10回よりも、100回、1000回、それよりも2000回、3000回と考えてしまいます。南無阿弥陀仏、念仏を自分の功徳とするのです。二十願は植諸徳本の願といわれて、あらゆる徳の本となる南無阿弥陀仏を称えて我が功徳にしてしまうのです。信罪の人は自分の悪業に目が向くので、ありのままで救われるとたとえ聞いたとしても信じられないのです。今の私を助けると聞いても今の私がそのまま助かる仏智の不思議が信じられないのです。念仏の功徳というよりは、自分の罪業を消してもらって、功徳を積み重ねて助かろうとするのです。今の私に阿弥陀仏のお力が届かないと思うのです。「善くなった自分」を想像してこれで阿弥陀仏に助けてもらえると思うのです。『教行証文類』に「罪福信ずる心をもって本願力を願求す」とあります。自分の行い、念仏をアテにして本願力で助かろうとすることです。救いをこちらから求めているのです。これは仏智の不思議を疑っているのです。もう少し頑張れば助けると言われたほうが信じられるのです。しかしそれでは本願に報いて出来上がった報土には往けません。『大無量寿経』にある「疑城胎宮」、お母さんのお腹の中、お母さんと一緒にいるけれど、お母さんの姿は見えないところに留まり、五百年の間三宝に遇えないと言われています。だから疑うなと言われるのです。

もちろん念仏するのが悪いのではありません。罪福を信じて念仏するのは、仏智を疑っているので悪いと言われるのです。南無阿弥陀仏を称えて、聞いているのですがその心の疑いは晴れないのです。称えて助かろうとしても安心はありません。助かったとも思えません。有難いとも思えません。結局は罪福も信じられないし、その気持ちそのものも本当のことと思えないのではないでしょうか。一日何万遍称えたら、の、「タラレバ」で今の私のままでは駄目だと自分ばかりを見て、阿弥陀仏を忘れているのです。

「本願を信じて念仏申す人は仏になる」と『歎異抄』にあります。すべての人を助けたいという法蔵菩薩はどんな悪人でも助けられる本願を建てられたのです。「○○しなさい。助ける」という本願なら、助かる人と助からない人に分かれます。法蔵菩薩は、私がすべて代わりに修行すると、私の代わりに兆載永劫の修行をして下さったのです。すべての人を助けたいという願、と兆載永劫の修行、その行によって成就、完成したのが阿弥陀仏の本願で、その願行が六字の中にあらわれたのが南無阿弥陀仏(蓮如上人)であると教えられたのです。南無阿弥陀仏となって、私のところまで来て呼びかけて下さる、その招喚の勅命が私の口から出て下さるのです。

蛇口から水が出てきても、蛇口だけを持ってきて蛇口(だけ)から水が出てくるとは誰も思っていません。念仏を称えていても自分の功徳と思うのは間違いです。本願力のはたらきが私の口から出ているのです。出処は本願力の方です。どれだけ称えても私の口から出たとは言いません。今どれだけ称えても、本願力が私にはたらいていると称えて聞いて疑いがないから、信じているということになるのです。称えて助かるのではなく、念仏しているのは本願力のはたらきです。どれだけ罪が深かろうが、どれだけ善いことをしていようが、南無阿弥陀仏に救われることとは関係がありません。疑いながらも、やがてどうにかなる、のではありません。今申す念仏は、阿弥陀仏が今のままの私を助けるという本願のはたらきです。

以上 文責 好浦和彦

6月の『にしのみや聞法会』

(61)仏智の不思議をうたがいて
自力の称念このむゆえ
辺地懈慢にとどまりて
仏恩報ずるこころなし(正像末和讃 誡疑讃)

誡疑讃とは疑いを戒める内容の和讃です。仏智の不思議を疑う人は自力の称名念仏を好むので辺地懈慢界に留まって仏恩を報ずる心がないという意味になります。

私達が思議できないような阿弥陀仏の智慧のはたらきを疑う人は阿弥陀仏の浄土、本願に報われた報土、真仏土には往くのではなく、方便化身土である辺地、懈慢界といわれるところに500年留まり、仏の姿を見たり、説法を聞くことができません。誡疑讃は繰り返してそのことを教え、その後に報土に往生すると言われています。

阿弥陀仏という仏は出家できない、修行のできない人を含むすべての人を生死の苦しみから離れさせて救う、仏にしてみせるという本願を建てて仏になられました。どれだけ素晴らしい浄土でも往くことができなければ建てた意味がありません。五劫の思惟と兆載永劫の修行である願と行により完成したのな南無阿弥陀仏という名号です。
南無阿弥陀仏と聞いた人は念仏して下さい。その念仏をする人を必ず浄土に生まれさせるという本願なので念仏往生の願と言います。

ところがそのように念仏ひとつと聞くと、自力の称名念仏の人は方便化身土に留まるのだと言われています。親鸞聖人の師匠の法然聖人の教えを聞く人にも「自力の称名念仏を好む人」がいたのです。自力の念仏を好む、とは念仏を善し、悪しに分けることです。回数の多い方が善い、一回でも善い、とか場所、時、称える心など、どちらが善い、どんな場所が善い、どんな時が善い、どんな気持ちが善いと善いのか悪いのかを気にすることです。自分の善いと思う念仏を称えて、そのことをアテにするのです。善い悪いという因果の考え方から起きているのです。阿弥陀仏は回数の善し悪しは仰っておられません。乃至十念と数は問わない、回数が多くないとダメとは仰っておられません。

念仏の救いは善し悪しでは決まりません。念仏、南無阿弥陀仏を信じるか疑うかで決まるのです。信じる人に南無阿弥陀仏がはたらくのだと教えられるのです。仏智の不思議、念仏往生の願は因果の考え方からするとわかりにくいのです。善いことをして迷いから離れていくのが聖道門です。称える前に比べると称えた後は自分が善くなっている、だから助かるのだと思うのです。
南無阿弥陀仏という名号は「われをタノメ。必ず助ける」という名のりであり、その名のりが私の口から出て下さっているのが南無阿弥陀仏であると親鸞聖人は教えておられます。称えて聞いて、聞いて疑っている人には名号が名号としてはたらかないのだと言われます。私が称えているのは阿弥陀仏が私に称えよとはたらいて下さっているのだと教えられています。

念仏を自らの力によって称えているのだと思う人は自らを「賢い」と自惚れている人なのです。阿弥陀仏が選んで下さった念仏を自分が選び、称えているのだと自惚れているのです。そして念仏を善い行の中に入れ込んで、自分は善人になって助かろうとしているのです。阿弥陀仏の本願は念仏をしているのは善人だから救うという救いではありません。念仏一つで助けると仰るのは阿弥陀仏が選んで下さった念仏一つで助かることを信じる人には南無阿弥陀仏、念仏がはたらくということです。

一枚起請文は法然聖人がお亡くなりになる寸前に仰ったとされるお言葉です。
「念仏の教え、救いを信じる人は釈迦一代の教えをよく知る人であっても愚かな自分であると理解して賢い人と同じような振る舞いをせずにただひたすらに念仏して下さい。」とあります。
よく念仏のことを学んだから早く助かるという考えは疑いです。どんな人でも等しく救われるように阿弥陀仏は南無阿弥陀仏になって下さったのです。南無阿弥陀仏は念仏する者を必ず浄土に生まれさせるはたらきであり、呼びごえです。そのことを信じる人は必ず助かるということです。いくら念仏にはたらきがあっても私に疑いがあって、はねつければ南無阿弥陀仏ははたらきません。

南無阿弥陀仏
(文責 好浦和彦)

4月の「にしのみや聞法会」

(60) 不了仏智のしるしには
如来の諸智を疑惑して
罪福信じ善本を
たのめば辺地にとまるなり
『誡疑讃』

 この和讃は阿弥陀仏の本願を疑うことに罪、科があるのだと戒める内容のものです。仏智をさとらない、受け入れないというしるし、仏の智慧を疑ってというのは、罪悪と福徳を信じているということです。善いことをすれば善い結果が、悪いことをすれば悪い結果が出るということを信じて念仏する人は念仏を自分の作り出す功徳と思っているので報土ではなく、方便化身土に生まれると親鸞聖人は教えられています。

 疑いが良くないと言われるのは、何でもかんでも疑ってはいけないと言われるのではなく、阿弥陀仏の本願を疑ってはいけないと言われるのです。阿弥陀仏の本願は誰に対して建てられたのか。それは仏説無量寿経に書かれています。生死を繰り返して生死の世界で苦しんでいる私達を観られた法蔵菩薩が助けてやりたいと慈悲の心を起こされて建てられたのが阿弥陀仏の本願です。まず生死の世界を出て離れて私達の往く所である浄土を考えて下さったのです。そして浄土に生まれさせて、仏にしてみせると本願を建てて下さったのです。

 仏教のどの宗派でも生死の迷いから離れて仏になることを目指しなさいと教えています。阿弥陀仏と他の仏の本願の一番の違いは、どんな人も浄土に往生させて、仏にしてみせるということです。釈尊は出家、修行を勧めておられます。親鸞聖人は比叡の天台宗で修行されましたが末法の時代は修行できる人がいないのだから悟りを開く人もないと教えられています。この末法の時代に凡夫をどのように助ければよいのかと法蔵菩薩は考えられたのです。南無阿弥陀仏となってすべての人に呼びかけるので、その通り南無阿弥陀仏と聞いて、南無阿弥陀仏と称えて下さい。その通り念仏申す人は必ず浄土に生まれさせて仏にしてみせると本願を建てられたのです。

 しかし多くの人はそれを聞くと、確かに念仏は強い縁にはなるかもしれないが、因として、何か自分でもしなければならないだろうと疑ってしまうのです。法然聖人の時代でも、念仏為本の救いと聞いて、念仏だけで救われると聞き、日本中の人が大変驚いたのです。念仏だけで救われると聞いて仏教をねじ曲げているという批判も起こったのです。修行によって悟りを開くのが仏教であり、因果の道理の破壊であると言われたのです。
親鸞聖人は念仏とは仏の呼び声が私に届いて私の口から出ているその姿であると言われます。念仏をする人を救うという本願を信じて念仏する人が救われるのだと教えておられます。

 呼び声の通り、念仏する人を明信仏智の人と言います。仏智を疑うとは、因果の道理、罪福を信じているから、仏智を受け入れることができないことです。念仏だけで救われると聞いても、何か自分でアシストしなければならない。そうでなければ往生できない、助けてもらえないと思い込んでいるのです。どんな心で称えなければならないとか、回数は多い方がよいとか自分で何かを用意しなければならないと思っているのです。
 
仏智のはたらき、それ一つで救われるのが本願の救いです。
(2)誓願不思議をうたがいて 御名を称する往生は 宮殿(くでん)のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまう

 私達の思議を超えている阿弥陀仏の本願を疑って、念仏をする人は立派な宮殿と言われる、仏の姿の見えない、仏の声も聞こえない、そんな所で500年という大変長い時間を過ごさなければならないと言われています。聖人は頑張って信じよとは言われていません。そういう人は自分の心が気になるのです。喜ばなければ救われないのだとか、どうしても気になるのです。いろんな心は起きても自分で何とかしようとする、その考えから離れよと言われるのです。信じるとは本願をその通り聞いて念仏することです。その人が往生して仏になるのです。

以上 文責 好浦和彦

5月の「にしのみや」聞法会のご案内

5月「にしのみや聞法会」のご案内

響流会では親鸞聖人のみ教えに学ぶ講座 「にしのみや聞法会」を毎月開催(1月と8月は未定)しております。 5月につきましては下記の開催となっております。お忙しい中だとは思いますが、どうぞご聴聞してください。

日時:5月 28日(土) 時間:午後 15時~午後 16時半 (途中休憩)

場所:西宮市勤労会館 第二会議室 (会場前に案内を出しております)

 

  1. 講師:好浦 和彦 先生

持ち物:筆記用具 など

開催にあたり西宮市立勤労会館から勤労会館利用者への協力依頼として以下の条件が提示されております。

1.会場の利用可能人数内(定員の50%)での利用

2.原則マスクを着用 (各自ご用意ください)

3.利用の前後は手洗い、手指消毒を行う (消毒液は用意しています)

4.近距離での発声や会話は控える

5.体調不良や基礎疾患のある方は参加を控えてください

6.ご参加の方の住所、氏名、電話番号を控えさせていただくことがあります

テキストがある場合は会場に用意しておりますので、どうぞお気軽におこしください。コロナ対応等、中止、延期等変更がある時は響流会HP (http://kourukai.org/)等でお伝えいたします。

お問い合わせは18guguru@gmail.comまでお願い致します。 以上

4月「にしのみや聞法会」のご案内

4月「にしのみや聞法会」のご案内

響流会では親鸞聖人のみ教えに学ぶ講座 「にしのみや聞法会」を毎月開催(1月と8月は未定)しております。 4月につきましては下記の開催となっております。お忙しい中だとは思いますが、どうぞご聴聞してください。

日時:4月 23日(土) 時間:午後 15時~午後 16時半 (途中休憩)

場所:西宮市勤労会館 第二会議室 (会場前に案内を出しております)

講師:宮田秀成 先生

持ち物:筆記用具 など

開催にあたり西宮市立勤労会館から勤労会館利用者への協力依頼として以下の条件が提示されております。

1.会場の利用可能人数内(定員の50%)での利用

2.原則マスクを着用 (各自ご用意ください)

3.利用の前後は手洗い、手指消毒を行う (消毒液は用意しています)

4.近距離での発声や会話は控える

5.体調不良や基礎疾患のある方は参加を控えてください

6.ご参加の方の住所、氏名、電話番号を控えさせていただくことがあります

テキストがある場合は会場に用意しておりますので、どうぞお気軽におこしください。コロナ対応等、中止、延期等変更がある時は響流会HP (http://kourukai.org/)等でお伝えいたします。

お問い合わせは18guguru@gmail.comまでお願い致します。 以上 “4月「にしのみや聞法会」のご案内” の続きを読む

2月の『にしのみや聞法会』

2月6日西宮市勤労会館にて『にしのみや聞法会』が開催され宮田秀成先生にお話して頂きました。

他力の信心うるひとを

うやまひおほきによろこべば

すなはちわが親友ぞと

教主世尊はほめたまふ 『正像末和讃(58)』

他力の信心を獲る人、獲たその人は、法を敬い、おおいに慶ぶのでその人は私の親しい友達だと仏教を教えられたお釈迦様が誉めて下さるのだという意味です。

『大無量寿経』には「見敬得大慶則我善親友」とあります。一生懸命勉強をして教えをよく覚えた人を親友といわれているのではありません。親鸞聖人は他力の信心を獲た人を親友とといわれているのです。親鸞聖人は「唯説弥陀本願海」といろいろな教えはあってもお釈迦様は阿弥陀仏の本願一つを教えて下さったと見ておられるのです。阿弥陀仏の本願とは、阿弥陀仏という仏の本当の願いです。私達が阿弥陀仏の本願を聞くということは、阿弥陀仏と私達には関係があるということです。阿弥陀仏の本願と私達は切っても切れない関係があります。阿弥陀仏はすべての人を苦しみから離れさせて浄土に往生させて、仏にしてみせる願いを建てられたのです。私達は生死に迷っています。どこから生まれてきたのか、死んでどこに行くのかもわからない私達が生死を繰り返していることを見られて、苦しみを抜いて楽にしてやりたいと阿弥陀仏が慈悲の心を起こして下さったのです。生死を離れさせて浄土に往生させて下さるのが阿弥陀仏の本願です。ではどうすれば往生できるのかという問題が出てきます。何かをしたら、これができたらということ、たとえば親孝行する人を助ける、となると助からない人が出てきます。

『歎異抄』には「本願を信じ念仏を申さば仏となる」とあります。念仏申す者は浄土に往生する、と聞いて称えない人は最初から信じていない人です。称えたら助かる、と思う人、これで助かりますかという人はまだ信じていない人になります。本願のことを念仏往生の願ともいいます。他力の信心とは、本願のお力、他力によって獲られる信心のことです。「称えたから助けて下さい」はそれでは何回称えたら助かるのかという問題になってしまいます。回数を制限とそれを称えられない人は助からないことになります。称えたからではなく、称えている人は助けられるのです。念仏で助ける本願と聞いて、疑い無いのが信心です。他力の信心を獲る人は法を聞いて、法を尊く思う心が出て大いに慶ぶのでお釈迦様はその人を親友であると仰るのです。

『御消息』には、「釈尊のみことには、【見敬得大慶則我善親友】と説きたまへり。また弥陀の十七願には、【設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚】と誓ひたまへり。願成就の文には【よろづの仏にほめられ、よろこびたまふ】とみえたり」とあります。

本願を聞いて、「あーそうですね。」と同意する人を見られたお釈迦様が親友であると仰るのです。「如来と等し」と言われるのです。仏が誉められることをその通り受けとめる人は必ず浄土に往生して仏になることが定まるので「如来と等し」と阿弥陀仏も我が親友と見て下さるのです。そもそも阿弥陀仏の慈悲には上下関係はありません。助ける側、助けられる側、先生、生徒、師匠、弟子のような上下関係ではありません。阿弥陀仏は、阿弥陀仏と私達を同じ者として見て下さるのです。あなたの苦しみは私の苦しみと受け取る友達のような関係です。

浅原才市という人は阿弥陀仏のことを「あなた」とよく言われます。「まよいかさねたわたくしが、 いまわ、あなたの、 いまわ、あなたの、 いまわ、あなたの、 をてに(御手に)あげられ、 ああ、うれしや。 わたしや、ろくじ(六字)のなかに、 とられてをること。」私がおまえになるというのが南無阿弥陀仏という呼び掛けです。何かをしたら助ける、念仏したら助けるという救いではありません。

「わしのこころは、あなたのこころ、 あなたのこころが、わたしのこころ。 わしになるのが、あなたのこころ。 お慈悲も光明も皆一つ。 才市もあみだもみなひとつ。 なむあみだぶつ。」とも言われています。

昔の人は聞いたのが信心、聞即信の信心と言いました。信心とは「助かる」ということです。阿弥陀仏の「助ける」という仰せをそのまま聞いたら「助かる」という他力の信心になります。念仏といっても、信心といってもどちらも南無阿弥陀仏ということになります。合掌(文責:好浦和彦)

3月26日(土)、4月23日(土)いずれも午後三時から西宮市勤労会館にて開催される予定です。以上

 

3月にしのみや聞法会のご案内

3月「にしのみや聞法会」のご案内

響流会では親鸞聖人のみ教えに学ぶ講座 「にしのみや聞法会」を毎月開催(1月と8月は未定)しております。
3月につきましては下記の開催となっております。お忙しい中だとは思いますが、どうぞご聴聞してください。

日時:3月 26日(土)

時間:午後 15時~午後 16時半 (途中休憩)

場所:西宮市勤労会館 第二会議室 (会場前に案内を出しております)

講師:宮田秀成 先生

持ち物:筆記用具 など

開催にあたり西宮市立勤労会館から勤労会館利用者への協力依頼として以下の条件が提示されております。

1.会場の利用可能人数内(定員の50%)での利用
2.原則マスクを着用 (各自ご用意ください)
3.利用の前後は手洗い、手指消毒を行う  (消毒液は用意しています)
4.近距離での発声や会話は控える
5.体調不良や基礎疾患のある方は参加を控えてください
6.ご参加の方の住所、氏名、電話番号を控えさせていただくことがあります

テキストがある場合は会場に用意しておりますので、どうぞお気軽におこしください。コロナ対応等、中止、延期等変更がある時は響流会HP (http://kourukai.org/)等でお伝えいたします。

お問い合わせは18guguru@gmail.comまでお願い致します。

以上

2月「にしのみや聞法会」のご案内

2月「にしのみや聞法会」のご案内

響流会では親鸞聖人のみ教えに学ぶ講座 「にしのみや聞法会」を毎月開催(1月と8月は休会)しております。
2月につきましては下記の開催となっております。お忙しい中だとは思いますが、どうぞご聴聞してください。

日時:2月 26日(土)

時間:午後 15時~午後 16時半 (途中休憩)

場所:西宮市勤労会館 2階 和室 (会場前に案内を出しております)

講師:宮田秀成 先生

持ち物:筆記用具 など

開催にあたり西宮市立勤労会館から勤労会館利用者への協力依頼として以下の条件が提示されております。

1.会場の利用可能人数内(定員の50%)での利用
2.原則マスクを着用 (各自ご用意ください)
3.利用の前後は手洗い、手指消毒を行う  (消毒液は用意しています)
4.近距離での発声や会話は控える
5.体調不良や基礎疾患のある方は参加を控えてください
6.ご参加の方の住所、氏名、電話番号を控えさせていただくことがあります

 

テキストがある場合は会場に用意しておりますので、どうぞお気軽におこしください。

お問合せは「お問合せ」フォームからお問合せいただくか、メールにてお問い合わせください。

1月と8月 休会とさせていただきます。変更がある時はお伝えいたします。

よろしくお願い申し上げます。

お問い合わせは、響流会HP (http://kourukai.org/) のお問い合わせ欄までお願い致します。

響流会