6月の『にしのみや聞法会』

(61)仏智の不思議をうたがいて
自力の称念このむゆえ
辺地懈慢にとどまりて
仏恩報ずるこころなし(正像末和讃 誡疑讃)

誡疑讃とは疑いを戒める内容の和讃です。仏智の不思議を疑う人は自力の称名念仏を好むので辺地懈慢界に留まって仏恩を報ずる心がないという意味になります。

私達が思議できないような阿弥陀仏の智慧のはたらきを疑う人は阿弥陀仏の浄土、本願に報われた報土、真仏土には往くのではなく、方便化身土である辺地、懈慢界といわれるところに500年留まり、仏の姿を見たり、説法を聞くことができません。誡疑讃は繰り返してそのことを教え、その後に報土に往生すると言われています。

阿弥陀仏という仏は出家できない、修行のできない人を含むすべての人を生死の苦しみから離れさせて救う、仏にしてみせるという本願を建てて仏になられました。どれだけ素晴らしい浄土でも往くことができなければ建てた意味がありません。五劫の思惟と兆載永劫の修行である願と行により完成したのな南無阿弥陀仏という名号です。
南無阿弥陀仏と聞いた人は念仏して下さい。その念仏をする人を必ず浄土に生まれさせるという本願なので念仏往生の願と言います。

ところがそのように念仏ひとつと聞くと、自力の称名念仏の人は方便化身土に留まるのだと言われています。親鸞聖人の師匠の法然聖人の教えを聞く人にも「自力の称名念仏を好む人」がいたのです。自力の念仏を好む、とは念仏を善し、悪しに分けることです。回数の多い方が善い、一回でも善い、とか場所、時、称える心など、どちらが善い、どんな場所が善い、どんな時が善い、どんな気持ちが善いと善いのか悪いのかを気にすることです。自分の善いと思う念仏を称えて、そのことをアテにするのです。善い悪いという因果の考え方から起きているのです。阿弥陀仏は回数の善し悪しは仰っておられません。乃至十念と数は問わない、回数が多くないとダメとは仰っておられません。

念仏の救いは善し悪しでは決まりません。念仏、南無阿弥陀仏を信じるか疑うかで決まるのです。信じる人に南無阿弥陀仏がはたらくのだと教えられるのです。仏智の不思議、念仏往生の願は因果の考え方からするとわかりにくいのです。善いことをして迷いから離れていくのが聖道門です。称える前に比べると称えた後は自分が善くなっている、だから助かるのだと思うのです。
南無阿弥陀仏という名号は「われをタノメ。必ず助ける」という名のりであり、その名のりが私の口から出て下さっているのが南無阿弥陀仏であると親鸞聖人は教えておられます。称えて聞いて、聞いて疑っている人には名号が名号としてはたらかないのだと言われます。私が称えているのは阿弥陀仏が私に称えよとはたらいて下さっているのだと教えられています。

念仏を自らの力によって称えているのだと思う人は自らを「賢い」と自惚れている人なのです。阿弥陀仏が選んで下さった念仏を自分が選び、称えているのだと自惚れているのです。そして念仏を善い行の中に入れ込んで、自分は善人になって助かろうとしているのです。阿弥陀仏の本願は念仏をしているのは善人だから救うという救いではありません。念仏一つで助けると仰るのは阿弥陀仏が選んで下さった念仏一つで助かることを信じる人には南無阿弥陀仏、念仏がはたらくということです。

一枚起請文は法然聖人がお亡くなりになる寸前に仰ったとされるお言葉です。
「念仏の教え、救いを信じる人は釈迦一代の教えをよく知る人であっても愚かな自分であると理解して賢い人と同じような振る舞いをせずにただひたすらに念仏して下さい。」とあります。
よく念仏のことを学んだから早く助かるという考えは疑いです。どんな人でも等しく救われるように阿弥陀仏は南無阿弥陀仏になって下さったのです。南無阿弥陀仏は念仏する者を必ず浄土に生まれさせるはたらきであり、呼びごえです。そのことを信じる人は必ず助かるということです。いくら念仏にはたらきがあっても私に疑いがあって、はねつければ南無阿弥陀仏ははたらきません。

南無阿弥陀仏
(文責 好浦和彦)