(60) 不了仏智のしるしには
如来の諸智を疑惑して
罪福信じ善本を
たのめば辺地にとまるなり
『誡疑讃』
この和讃は阿弥陀仏の本願を疑うことに罪、科があるのだと戒める内容のものです。仏智をさとらない、受け入れないというしるし、仏の智慧を疑ってというのは、罪悪と福徳を信じているということです。善いことをすれば善い結果が、悪いことをすれば悪い結果が出るということを信じて念仏する人は念仏を自分の作り出す功徳と思っているので報土ではなく、方便化身土に生まれると親鸞聖人は教えられています。
疑いが良くないと言われるのは、何でもかんでも疑ってはいけないと言われるのではなく、阿弥陀仏の本願を疑ってはいけないと言われるのです。阿弥陀仏の本願は誰に対して建てられたのか。それは仏説無量寿経に書かれています。生死を繰り返して生死の世界で苦しんでいる私達を観られた法蔵菩薩が助けてやりたいと慈悲の心を起こされて建てられたのが阿弥陀仏の本願です。まず生死の世界を出て離れて私達の往く所である浄土を考えて下さったのです。そして浄土に生まれさせて、仏にしてみせると本願を建てて下さったのです。
仏教のどの宗派でも生死の迷いから離れて仏になることを目指しなさいと教えています。阿弥陀仏と他の仏の本願の一番の違いは、どんな人も浄土に往生させて、仏にしてみせるということです。釈尊は出家、修行を勧めておられます。親鸞聖人は比叡の天台宗で修行されましたが末法の時代は修行できる人がいないのだから悟りを開く人もないと教えられています。この末法の時代に凡夫をどのように助ければよいのかと法蔵菩薩は考えられたのです。南無阿弥陀仏となってすべての人に呼びかけるので、その通り南無阿弥陀仏と聞いて、南無阿弥陀仏と称えて下さい。その通り念仏申す人は必ず浄土に生まれさせて仏にしてみせると本願を建てられたのです。
しかし多くの人はそれを聞くと、確かに念仏は強い縁にはなるかもしれないが、因として、何か自分でもしなければならないだろうと疑ってしまうのです。法然聖人の時代でも、念仏為本の救いと聞いて、念仏だけで救われると聞き、日本中の人が大変驚いたのです。念仏だけで救われると聞いて仏教をねじ曲げているという批判も起こったのです。修行によって悟りを開くのが仏教であり、因果の道理の破壊であると言われたのです。
親鸞聖人は念仏とは仏の呼び声が私に届いて私の口から出ているその姿であると言われます。念仏をする人を救うという本願を信じて念仏する人が救われるのだと教えておられます。
呼び声の通り、念仏する人を明信仏智の人と言います。仏智を疑うとは、因果の道理、罪福を信じているから、仏智を受け入れることができないことです。念仏だけで救われると聞いても、何か自分でアシストしなければならない。そうでなければ往生できない、助けてもらえないと思い込んでいるのです。どんな心で称えなければならないとか、回数は多い方がよいとか自分で何かを用意しなければならないと思っているのです。
仏智のはたらき、それ一つで救われるのが本願の救いです。
(2)誓願不思議をうたがいて 御名を称する往生は 宮殿(くでん)のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまう
私達の思議を超えている阿弥陀仏の本願を疑って、念仏をする人は立派な宮殿と言われる、仏の姿の見えない、仏の声も聞こえない、そんな所で500年という大変長い時間を過ごさなければならないと言われています。聖人は頑張って信じよとは言われていません。そういう人は自分の心が気になるのです。喜ばなければ救われないのだとか、どうしても気になるのです。いろんな心は起きても自分で何とかしようとする、その考えから離れよと言われるのです。信じるとは本願をその通り聞いて念仏することです。その人が往生して仏になるのです。
以上 文責 好浦和彦