2月6日西宮市勤労会館にて『にしのみや聞法会』が開催され宮田秀成先生にお話して頂きました。
記
他力の信心うるひとを
うやまひおほきによろこべば
すなはちわが親友ぞと
教主世尊はほめたまふ 『正像末和讃(58)』
他力の信心を獲る人、獲たその人は、法を敬い、おおいに慶ぶのでその人は私の親しい友達だと仏教を教えられたお釈迦様が誉めて下さるのだという意味です。
『大無量寿経』には「見敬得大慶則我善親友」とあります。一生懸命勉強をして教えをよく覚えた人を親友といわれているのではありません。親鸞聖人は他力の信心を獲た人を親友とといわれているのです。親鸞聖人は「唯説弥陀本願海」といろいろな教えはあってもお釈迦様は阿弥陀仏の本願一つを教えて下さったと見ておられるのです。阿弥陀仏の本願とは、阿弥陀仏という仏の本当の願いです。私達が阿弥陀仏の本願を聞くということは、阿弥陀仏と私達には関係があるということです。阿弥陀仏の本願と私達は切っても切れない関係があります。阿弥陀仏はすべての人を苦しみから離れさせて浄土に往生させて、仏にしてみせる願いを建てられたのです。私達は生死に迷っています。どこから生まれてきたのか、死んでどこに行くのかもわからない私達が生死を繰り返していることを見られて、苦しみを抜いて楽にしてやりたいと阿弥陀仏が慈悲の心を起こして下さったのです。生死を離れさせて浄土に往生させて下さるのが阿弥陀仏の本願です。ではどうすれば往生できるのかという問題が出てきます。何かをしたら、これができたらということ、たとえば親孝行する人を助ける、となると助からない人が出てきます。
『歎異抄』には「本願を信じ念仏を申さば仏となる」とあります。念仏申す者は浄土に往生する、と聞いて称えない人は最初から信じていない人です。称えたら助かる、と思う人、これで助かりますかという人はまだ信じていない人になります。本願のことを念仏往生の願ともいいます。他力の信心とは、本願のお力、他力によって獲られる信心のことです。「称えたから助けて下さい」はそれでは何回称えたら助かるのかという問題になってしまいます。回数を制限とそれを称えられない人は助からないことになります。称えたからではなく、称えている人は助けられるのです。念仏で助ける本願と聞いて、疑い無いのが信心です。他力の信心を獲る人は法を聞いて、法を尊く思う心が出て大いに慶ぶのでお釈迦様はその人を親友であると仰るのです。
『御消息』には、「釈尊のみことには、【見敬得大慶則我善親友】と説きたまへり。また弥陀の十七願には、【設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚】と誓ひたまへり。願成就の文には【よろづの仏にほめられ、よろこびたまふ】とみえたり」とあります。
本願を聞いて、「あーそうですね。」と同意する人を見られたお釈迦様が親友であると仰るのです。「如来と等し」と言われるのです。仏が誉められることをその通り受けとめる人は必ず浄土に往生して仏になることが定まるので「如来と等し」と阿弥陀仏も我が親友と見て下さるのです。そもそも阿弥陀仏の慈悲には上下関係はありません。助ける側、助けられる側、先生、生徒、師匠、弟子のような上下関係ではありません。阿弥陀仏は、阿弥陀仏と私達を同じ者として見て下さるのです。あなたの苦しみは私の苦しみと受け取る友達のような関係です。
浅原才市という人は阿弥陀仏のことを「あなた」とよく言われます。「まよいかさねたわたくしが、 いまわ、あなたの、 いまわ、あなたの、 いまわ、あなたの、 をてに(御手に)あげられ、 ああ、うれしや。 わたしや、ろくじ(六字)のなかに、 とられてをること。」私がおまえになるというのが南無阿弥陀仏という呼び掛けです。何かをしたら助ける、念仏したら助けるという救いではありません。
「わしのこころは、あなたのこころ、 あなたのこころが、わたしのこころ。 わしになるのが、あなたのこころ。 お慈悲も光明も皆一つ。 才市もあみだもみなひとつ。 なむあみだぶつ。」とも言われています。
昔の人は聞いたのが信心、聞即信の信心と言いました。信心とは「助かる」ということです。阿弥陀仏の「助ける」という仰せをそのまま聞いたら「助かる」という他力の信心になります。念仏といっても、信心といってもどちらも南無阿弥陀仏ということになります。合掌(文責:好浦和彦)
3月26日(土)、4月23日(土)いずれも午後三時から西宮市勤労会館にて開催される予定です。以上