(48)不思議の仏智を信ずるを
報土の因としたまへり
信心の正因うることは
かたきがなかになほかたし
(正像末和讃)
私達が思議することも、想像することもできない仏智の不思議を信じることを阿弥陀仏は報土の因、浄土往生の因として下さったのです。報土とは因に報いて阿弥陀仏の本願によって建てられた浄土のことです。その信心を獲ることは、難きが中にもなお難いと言われています。
仏の智慧とは、阿弥陀仏の智慧のはたらきのことです。阿弥陀仏の智慧のはたらきを光明と言います。聖人は尽十方無礙光如来と、どこへ行ってもおられない世界がない、障りなく救って下さる仏様と呼ばれています。我々に悪業、煩悩があってもそれが障りにならないのが阿弥陀仏の救いです。色も形もなく、想像できないはたらきを光明と言われました。だからその救いは大変不思議であると言われます。
例えば仏教で悪とされる殺生をする者も必ず浄土に往生させるという不思議な救いなのです。
地獄一定と言われる者に、あなたの還るところだとして浄土を用意して下さったのです。
そして条件なく、例外なく救うという本願を建てて下さったのです。
その本願には、念仏する者を必ず浄土往生させると誓われています。その本願を信じることが報土の因となります。そんな簡単なことなのですか、という意見が出そうですが、信心を獲ることは難きが中にもなお難いと大無量寿経に、そして阿弥陀経には極難信とあります。
「正信偈」には「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」とあります。一方「御文章」には「心やすの安心、往きやすの浄土」とも言われます。阿弥陀仏の本願が成就して、南無阿弥陀仏と呼び掛けて下さっている本願力回向、他力回向によって南無阿弥陀仏を聞いて疑いないことが信心です。わたしの側から何かしなければならないという救いではありません。私が何かお願いする前に既に与えられているのです。しかし私はどうしたら助かるのですか、と自分で取りにいこうとするから難しくなるのです。工程という考え方で言うならば、工程は一つです。阿弥陀仏の呼び掛けをただ聞くだけです。
あっちこっち聞きに行くとか、心をおちつかせるとか念仏を称えるとか、何か私がしなければ信心が頂けないと思ってしまうのです。それは仏智を否定していることてあり、疑い、自力の信と言われます。助かろうと私の側から始めようとするのです。
才市という人は、「胸にさかせた信の花、弥陀にとられて」と信心を頂くのは、私の側から何かすることではないと言われました。
疑い無いことを無疑と言います。疑いが無いのは助けるという呼び掛けを聞いたからです。自分の側から押し通そうとしても無理です。この道を進んで助けてもらおうという道はありません。必ず助けるということをただ聞いて頂きたいと思います。