今回(2月22日)は前回に続き親鸞聖人の正像末和讃のお話がありました。
無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ
仏から観れば私たちは無明という苦しく長い夜にいます。そんな私たちを照らして下さる灯炬である阿弥陀仏の本願力があるのだから悲しむな。生死を繰り返す大海に沈んでいる私を渡して下さる船筏のようなものが阿弥陀仏の本願力であるから嘆くなと教えて下さいます。
無明とは聖人が「煩悩の王なり」と仰るように生きている間、私たちの心の底、根にあるという意味から根本無明と言われます。私たちには先を見通す力、智慧がありませんから死んだらどこに行くのかがわかりません。明日のことさえわからない私たちです。死んだらおわりではなく何かに生まれていくのだ、そんな生死を繰り返して止まることがないのだと教えられたのが仏教です。
そんな私たちを生死の苦しみから離れさせて浄土に生まれさせてやりたいと現れて本願を建てられたのが阿弥陀仏という仏です。そしてその願い通りに南無阿弥陀仏となって私たちにはたらいて下さいます。聖人は、南無阿弥陀仏は私を招いて喚び続けて下さる声と教えられ、その南無阿弥陀仏を信じて称える人を助けてみせるのが本願力です。死んでからの救いではなく、今、浄土に生まれることのできる人生に変わります。だから悲しむなと仰るのです。
生死の海は苦海とも言われます。足の届かないところはつかまって一休みするところがないので安心できない。拠り所がない。人生において何もたよりにならないし、健康でも死ななくなるわけではありません。その私に船筏のようになって下さるのが本願力です。乗せてもらったら心配する必要がない。罪障が重くても嘆く必要がない。「さるべき業縁のもよおせば、いかなる振る舞いもなすべし」と言われます。よくニュースで見る子供の虐待もだいたいその親が子供の時に虐待を受けているケースが多いと言われます。私たちはたまたまそのような親に当たらなかっただけです。
この和讃の元になったのは、聖覚法印の唯信鈔のお言葉です。高い岸にいる人が綱を下の人に垂らして下の人を高いところに昇らせようとした時に、下の人が、「綱が切れるのではないか」「(高い岸の人の)力が弱いのではないか」「私は重い」と疑い、綱を取らないといつまでも高い岸には昇れません。本願力を疑い、信じない人は救われません。仏力は無窮なり、限りがない。罪業を重しとせず、散乱法逸の者を捨てられない。だから信心を要とするのです。南無阿弥陀仏は私を浄土に必ず生まれさせて仏にしてみせるとの喚び声であり、その通り聞くのが信心です。
以上