今回(9月28日)は前回に続き親鸞聖人の正像末和讃のお話がありました。
像法のときの智人も
自力の諸教をさしおきて
時機相応の法なれば
念仏門にぞいりたまふ(29)
弥陀の尊号となへつつ
信楽まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもひあり(30)
龍樹菩薩、天親菩薩のように自力の修行で高い悟りを開いた方々も自力の教えをさしおいて念仏の教え、他力の教えに入られたと言われています。末法の時代には自力の教えではなく念仏の教えが時機相応である。仏教とは仏の教え、仏になる教えと言われるがいろいろな道がある。自力の教えは陸路を進むようなもので、念仏の教えは水路を進むようなものであり、苦労が違う。末法には水路でなければ行けないと勧められました。
では具体的にどうすれば仏になれるのかを教えられたのが二つ目の御和讃です。仏の眼から観られた人間の姿は、「人生は苦なり」と満足することなく生まれ変わり、死に変わりを際限なく繰り返している。そのような生死から離れさせて浄土に往生させて救いたいというのが阿弥陀仏の本願。阿弥陀仏は浄土で待っているのではなく南無阿弥陀仏となられて私達に届き、称えさせて下さる。南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏が「浄土に来なさい」と私を招き、喚び続けて下さる本願召喚の勅命と親鸞聖人は教えておられます。
念仏を称えたら救われるのではなく、真宗では南無阿弥陀仏を称えて南無阿弥陀仏を本願召喚の勅命とそのまま聞き入れることを信心、信楽と言います。「聞いて疑ふ心のなきなり。」と特別に強い心で信じるのではありません。いくら称えても信心がなければ浄土に往生はできない。疑いなくそのまま聞いているのを信心、聞信一如、聞即信と言います。私からあれこれ何も付け加える必要はありません。
憶念の心つねにして、とは信心は途切れることがないという意味です。南無阿弥陀仏は常に働いて下さっているので阿弥陀仏の御恩に報いようとする思いも出てくるということです。
その後質疑応答がありました。
以上