今回(7月27日)は前回に続き親鸞聖人の正像末和讃のお話がありました。

今回(7月27日)は前回に続き親鸞聖人の正像末和讃のお話がありました。

五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし(26)

念仏往生の願により
等正覚にいたるひと
すなはち弥勒におなじくて
大般涅槃をさとるべし(27)

親鸞聖人の晩年の和讃です。大乗の菩薩とはすべての人を救おうと仏になろうとしている人のことで、弥勒菩薩は長い間修行をして五十二段ある仏の覚りの五十一段である等正覚まで来ている人です。その弥勒菩薩はあと一段昇って釈尊と同じ仏になるには五十六億七千万年という長い時間がかかります。それに対してまことの信心をうる人はこの命が終わると速やかに仏の覚りを開くのだと教えられています。

まことの信心とは真実信心、他力の信心のことで念仏往生の願、阿弥陀仏の本願(第十八願)を信じることであり、その内容は、本願を信じ念仏するものは必ず浄土に往生させるというものです。阿弥陀仏とは、もとは法蔵菩薩であり、私を仏にするために仏になられた仏様のことです。

最近は自己責任ということがよく言われます。弥勒のような人は自分で覚りを開けるのでよいかもしれませんが、私たちのような凡夫といわれる人間は、そのまま死んでいくしかなく、覚りとは縁がありません。その姿を見て、法蔵菩薩は何とか生死から離れさせてやりたいと作られたのが私たちが往かせて頂く浄土です。そして何か条件をつけると往ける人と往けない人が出るので、性格、能力、年齢、性別は関係なく南無阿弥陀仏と称名念仏するものを生きている間に弥勒と同じ等正覚、必ず仏になれる身にして、命終わると速やかに浄土往生させ、仏の覚りを開かせると誓われたのが念仏往生の願です。

南無阿弥陀仏が私を浄土に往生させるのだと聞いて疑いのないのが信心です。ひとたびそのように聞くと、まことの信心は死ぬまで崩れることがありません。ただそのように聞いてもなかなかわかる私たちではありません。私の称える南無阿弥陀仏は「気持ちがこもっていない」とか「真剣さが足りない」などと考えてしまうのですが阿弥陀仏が浄土を作って、よびかけて下さっているその本願のはたらきが私に届いて、当たって、私の口から出て下さっているのが称名念仏、南無阿弥陀仏です。自分の力で称えているのではなく、既にずっと私にはたらいて下さっていたのだと気づくことが信心です。
そのように気づいた人、聞こえてきた人は命終わるとき速やかに弥勒よりも先に仏の覚りを開くことになります。

以上