今回(4月27日)は親鸞聖人の正像末和讃より二首のお話がありました。
釈迦如来かくれましまして
二千余年になりたまふわ
正像の二時はをはりにき
如来の遺弟悲泣せよ
末法第五の五百年
この世の一切有情の
如来の悲願を信ぜずは
出離その期はなかるべし
仏教を聞くのは、生死から出離するためです。正法の時代は、『教』(教え)『行』(修行)『証』(さとり)はすべて揃っていますが像法の時代は、『教』『行』はあっても『証』がありません。正法、像法が既に終わり、現在、末法の時代は、『教』はあっても『行』『証』はありません。
「修行ができなくなる時代になれば阿弥陀如来の本願でなければ我々は救われない=唯説弥陀本願海」と親鸞聖人は教えられました。
阿弥陀如来は「私はすべての人を救って生死から離れさせ浄土に往生させて仏にしてみせる」という本願を建てられ、成就されました。そして南無阿弥陀仏の声となりすべての人に呼び掛けておられます。
「本願を信じ念仏申さば仏になる。」の言葉通りに私を助けるはたらき、そのものである阿弥陀如来の本願を信じなければ、生死から出離することはできません。阿弥陀仏の本願を信じれば生死から離れることができます。「信じる」とは「聞く」ということであり、「信じる」ということは如来の本願を「聞いた」ことであると親鸞聖人は教えられました。「信じる」といっても、「聞いて」疑わない(不疑)ということではなく、(本願をその通りと)聞いて疑いがない(無疑)ということです。聞き受けたその人は肉体の命が終われば生死から出離することができます。以上