6月にしのみや聞法会

6月10日にしのみや聞法会が開かれました。

愚禿悲歎述懐(94)

浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて、清浄の心もさらになし

この和讃は親鸞聖人がご自身のことを悲しみ歎いて述べておられます。ご自身を非僧非俗ともいわれました。

「以上十六首、これは愚禿がかなしみなげきにして述懐としたり。 この世の本寺本山のいみじき僧とまうすも法師とまうすもうきことなり。」

16首の最後に、親鸞聖人は私が愚禿であることを悲しみ歎いて述べたものです。聖道仏教、比叡山や高野山や興福寺にいる、国から位を与えられた僧、法師といわれる人も同じような状態ですが、、、、。

しかしこの和讃は他の人を批判しているのではなく、親鸞聖人ご自身のこと、浄土真宗に帰してもこんな有様だと悲しみ、歎いておられるのです。

浄土真宗とは宗名ではなく十八願、本願の念仏の教えのことです。ご消息にも「選択本願は浄土真宗なり」とあります。

親鸞聖人は29歳のとき、浄土真宗に帰したと言われています。(「建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」)本願に救われたけれど清淨の心も真実の心もありません。嘘、偽り、真実の心のない私だからキレイな心は更にありませんと仰るのです。この和讃は85、86歳の時のものといわれています。

悲歎述懐といっても、タメ息をついて、鬱のようになって詠まれたのではありません。こんなものを救うと誓い、救って下さることを喜んでおられるのです。

親鸞聖人が悲歎されておられるので、私も救われたなんて思ってはいけない、自分は不実なのでそれでいいのだと思うのは造悪無碍といいます。それは間違いです。

実、とは果実、実は詰まっていることをいいます。それに対して虚は中身がないのです。仮は真に対して、仮にそうなっているということです。

浄土真宗に帰すると聞くと、虚仮不実の我が身が真実、清淨の心になるのではないかと思う人がいます。立派な妙好人、念仏者のようになるのではありません。信心と聞くと、自分の心の中が真実っぽい心、清淨の心に変わってしまうと思いがちですが、親鸞聖人は、私には清淨の心も真実の心もないから法蔵菩薩は十八願を建てられたと信文類に書かれています。

「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。

ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。」『信文類』

すべての人を救うために法蔵菩薩は本願を建てて修行をして下さったのです。その修行は一時たりとも清淨の心でないこと、真実の心でないことは無かった。永い永い間清淨の心のない、真実の心のない私達のために代わりに法蔵菩薩が修行をして下さった、その結果、完成したのが、南無阿弥陀仏です。煩悩と菩提、生死と涅槃が溶け合ったさとりの徳、私達が思議できない、ほめ尽くせない、この上ない功徳を成就して下さったのです。

「如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。 成一 すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。 この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。 」『信文類』

その南無阿弥陀仏を私達に与えて下さるのです。回施、回向ともいいます。阿弥陀仏が私達(他)に利益して下さるのです。他とは、一切の群生海、その私を助けようとする真心を彰していて、疑いの蓋の雑ることがない。南無阿弥陀仏がその体であり、清淨、真実の心はその南無阿弥陀仏から出てくるのです。自分で真の心になって本願を信じて浄土に生まれたいと思って念仏を称えなければならないのではありません。そうでなければならないのなら、私達は絶対に助かりません。本願に救われても清淨の心がない。真実の心がないと親鸞聖人は仰るのです。

けれど、それでも、今の自分の心にをもうちょっと良くしないと南無阿弥陀仏を聞けないと思うのです。

一切の群生海というのは、仏の視点です。無始から今日、今時そうだった人は明日も来年もそのままです。ずっと変わることがないのです。だから阿弥陀様が清淨の心、真実の心を南無阿弥陀仏におさめて私達に与えて下さるのです。清淨の心、真実の心といってもそれは南無阿弥陀仏の御心、功徳であり、そのことをはたらき、呼び声といいます。今の私のままに、浄土に往生させるというのが南無阿弥陀仏のはたらきです。親鸞聖人は、その南無阿弥陀仏を聞いてみると、この自分は変わることがない、申し訳ないという気持ちだが、そこまでして救って下さるのだと喜ばれたのです。

心の有様に関わらず、南無阿弥陀仏に救われていくことをそのまま疑いなく聞くのを信心といいます。阿弥陀仏には、私を助けることに全く疑いがありません。

以上 文責 好浦