5月「にしのみや聞法会」のお話

弥陀観音大勢至 大願のふねに乗じてぞ 生死のうみにうかみつつ 有情をよぼうてのせたまう(正像末和讃)

 

弥陀観音大勢至と古いお寺などに行くと阿弥陀三尊像があります。阿弥陀仏が中央に、両脇に苦しむ者の声を音として聞いて下さる慈悲の観音菩薩、そして智慧をあらわした大勢至菩薩です。その御三方が船に乗られてとありますが船とは、阿弥陀仏の本願のことです。生死の海にいる、沈んでいる有情と言われるのが生死を際限なく繰り返している私達のことです。小さな川なら溺れることはありませんが、深い海なら溺れてしまいます。

 

コロナ禍ですが、一年前と比べて感染者が一桁多くなりました。死が身近に感じられるようになってきたかもしれません。死んだらすべてが終わりだと言う人がいるかもしれませんが、仏教では死んだら終わりではない、死んだらまた何かに生まれ、際限なく生死を繰り返すと言われます。その生死の苦しみから離れられない私達をそこから離れさせてやりたい、苦しみを抜いて楽にさせてやりたいと慈悲の心を阿弥陀仏が起こされたのです。浄土を作られ、海に沈んでいる私達を船に引き上げて、浄土に往生させるという願いを建てられたのです。願いと言っても、ただの願い、掛け声ではありません。

生死の海を渡して、浄土に往生させ、成仏させるという本願は既に成就しています。弥陀観音大勢至の御三方がその船に乗られて「あなたを助けに来ました」と私達によびかけて下さっているのです。そして私達を船に乗せて下さるのです。

普通は仏、神に助けてもらうと言っても、助けてもらうこちらからお願いをしなければならないと思っているのですが、阿弥陀仏の方から私に近づいて、私に「助けに来た」とよび続けて、乗せて下さるのです。

 

阿弥陀仏は南無阿弥陀仏とよびかけて下さるのです。南無阿弥陀仏という称名念仏は、ただの声、呪文ではありません。親鸞聖人は、阿弥陀仏が有情をよび続けて下さる声と言われます。普通は仏、神に対してなら出家する、お経を読む、学問をする、戒律を守ると助けられる側から何かをしてお願いをします。確かにそれができる人は助かるかもしれませんが世の中はそれが出来ない人も沢山います。コロナ禍で頑張れる飲食店もありますが、これ以上頑張れないお店も必ず出てきます。ひとり残らず、漏れなく浄土往生できるというのが阿弥陀仏の本願です。ここまで頑張れる人なら助けられるという基準があると助からない人が出てきます。

 

南無阿弥陀仏という、よび掛けを聞いてどうか称えて下さい。そしてそのよび声が私を助ける、浄土に往生させるというよび声だと信じて称えて下さい。本当に苦しいときは声をあげられないものです。苦しくてなかなか声をあげられない私達の声を聞いて下さっている観音菩薩は無明の闇を晴らす太陽のような日天子であり、勢至菩薩は生死の闇を破る月天子と親鸞聖人は言われます。生死の海から逃れられない私がひとたび船に乗せられると、必ず浄土往生ができるのです。それは今まで仏法を聞いていない人も、長年聞いてきた人も同じで差別はありません。南無阿弥陀仏と、私がよばれていることを聞いて、疑いなく、信心が定まった人は船に乗ったということです。頑張れる人も、そうでない人も必ず助けるという本願です。

 

南無阿弥陀仏の、「南無はたのむ、あて力にしなさい」、「阿弥陀仏は、必ず助ける仏様」ということです。

「我をたのめ、必ず救う、助ける」と聞いて、疑いないのが信心です。助かったということです。

今回は和室です