4月「にしのみや聞法会」のお話

(49)無始流転の苦をすてて

無上涅槃を期すること

如来二種の回向の

恩徳まことに謝しがたし

(正像末和讃)

無始流転の苦しみから離れて、この上ない仏の証を開かせて頂ける浄土真宗の救いとは何か。阿弥陀仏は、人間は始まりのないずっと前から苦しみ、流転を重ねてきたと観られ、善導大師は、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなし」とご自身を観られました。常に苦しみの海に沈んでいる。今までも、今も、これからもずっと続くということです。そのことを憐れに観られた阿弥陀仏は私達をその苦しみから離れさせる、その苦しみを抜いてみせるという阿弥陀仏の本願を建てられました。

そしてその苦しみから離れた人はどうなるのか。阿弥陀仏のお浄土に生まれさせて、成仏させるというのが阿弥陀仏の本願です。

とは言っても、私達はお浄土のことを教えて下さる方がいなければ往生したいという気持ちも起きません。そこで阿弥陀仏が主体となり、私達に二つの回向をして下さるのです。一つは往相回向、二つには還相回向です。

往相回向とは、往生させる姿のことで、往生させると私達にはたらいて下さるのです。『教行信証』に「往相の回向について真実の教・行・信・証あり。」とあります。また『大無量寿経』に真実の教えがあると言われ、阿弥陀仏の本願のあること、どのように往生させるのか、成仏させるかが書かれています。行とは南無阿弥陀仏、念仏のこと、信とはそのはたらき、証とは、往生して仏の証を開くと教えられています。

浄土に往生したらどうなるのか。成仏したら浄土に座っているわけではなく、苦しむ人を救うために娑婆に還ってくるのです。『浄土和讃』には、「安楽浄土にいたるひと 五濁悪世にかえりては 釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし」と浄土に往生した人はお釈迦様のように仏となって人びとを利益する、救うとあります。この二種の回向によって私は苦しみを捨てて、無上の仏の証を開かせて頂くことができるので、そのご恩には感謝が尽きないという意味です。

往相は分かりやすいが還相は分かりにくいと言う人がいます。還相は遠い将来のことではなく、今、浄土から衆生を救うために還ってきて下さっているのです。親鸞聖人は、お釈迦様、七高僧も、そのお師匠の法然聖人も浄土からあらわれた方々と本当にそう思っておられました。真宗の人、特に本願寺系の人は蓮如上人にもそう思っておられると思います。阿弥陀仏はお釈迦様があらわれる前からいらっしゃるのですが、お釈迦様から想像てはなく仏の智慧によってはじめてそのことを聞かせて頂くことができます。教えを説かれる人から還相のはたらきを頂いていることがわかるのです。

『教行信証』の最後の方に、「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。何となれば、前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。」とあります。前(さき)に生まれた人は後に生まれた人を導いていきます。後に生まれた人は前の人に訪ねていって下さい。もし私が浄土に往生して仏になる身となったのなら、それは浄土から還ってきた方に導かれたということであり、苦しむ人がみな往生できるまでずっと続くのだ、と親鸞聖人は教えて下さったのです。

阿弥陀仏は南無阿弥陀仏となって私達に呼び掛けて下さっています。南無阿弥陀仏が私達を助けて下さるはたらきであると信じる人を助ける本願です。称名念仏はただの声ではありません。阿弥陀仏が私達に差し向けて下さる往相のはたらきなのです。信心とは聞いて疑いのないことです。いつでもどこでもどんな人でも南無阿弥陀仏は私を往生させて下さるはたらきと疑いが無くなれば必ず救われる本願です。