11月 「にしのみや聞法会」のお話

(45)真実信心うることは

末法濁世にまれなりと

恒沙の諸仏の証誠に

えがたきほどをあらはせり

 

浄土真宗では信心をやかましく言います。信心とは一般的には、信心すると言いますが、浄土真宗では信心を獲ると言います。阿弥陀仏という仏様が造って下さった浄土に往生して、仏になるのが浄土真宗の教えです。

なぜ阿弥陀仏は浄土を造って下さったのか。私たちは気がついたら生まれていて、いつ死ぬのかもわからず、死んだらどうなるのかもわからず、死んでいきます。仏教では、死んだら終わりではなく、別のものに生まれ変わり、死に変わり、際がない、離れられない、このことを流転輪廻と言います。その私たちをかわいそうだから何とか助けてやりたいと慈悲の心を起こし、そこから離れさせてあげたいと、本願を建て、浄土という場所を用意して下さったのです。「そこから離れて私の浄土に来なさい。そして生まれたら仏になりなさい。」と願われています。ではどうすれば浄土に往けるのでしょうか。

 

どれだけ素晴らしい浄土があっても、例えば遠いところで歩いていかなければならないのなら無理な人が出てきます。仏教では一般的には、修行をしなければならないと言われます。例えば親孝行という修行があります。阿弥陀仏は親孝行をしている人を哀れに思われたのではありません。どんな人も、等しく平等に差別なく救おうと、呼びかけておられます。私が南無阿弥陀仏となって呼びかけるので、南無阿弥陀仏を聞いたら、南無阿弥陀仏を称えて下さい。念仏して下さい、と。南無阿弥陀仏と念仏する人を必ず浄土に往生させるという本願を信じるのを信心と言います。南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いのが浄土真宗の信心です。

 

でもなかなか「そうでございますか。」とは成りません。末法五濁になるとなかなか信じられません。今の世は、南無阿弥陀仏という言葉は知っていても信じられない。信心を獲ることはまれです。だからガンジス川の数ほどの仏が「本当ですよ。」と証明されているのです。

 

阿弥陀経というお経に、阿弥陀仏という仏がおられること、浄土とはどんなところか、どうすれば生まれることができるのかが書かれています。

少善根福徳の因縁、すなわち親孝行、読経、戒律を保つなどの修行では浄土に生まれることはできません。名号を執持する、念仏で往生できると、私(お釈迦様)だけでなく、六方世界の仏様が口を揃えて言っている、証明しているのだと書かれています。どうしてここまで仏様が仰るのか。それは真実信心を獲ることが大変難しいからです。お経の最後に、難信の法であるとあるのはそのためです。諸行無常と聞けばその通りと聞けるのですが、阿弥陀仏が南無阿弥陀仏と呼び声になったと聞いてもその通りと聞けないのです。そのことを聞いて疑い無いことを信心と言います。難しい、難しいと聞いて、親鸞聖人や蓮如上人や妙好人のような偉い人は信心は獲られるけれど、となります。それよりも少善根を積み重ねて福徳因縁にして助かろうとしてしまいます。私の力ではなく南無阿弥陀仏をそのまま聞くということです。お釈迦様、諸仏が言っているのだから南無阿弥陀仏を信じて下さい、ということです。

 

 

 

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