5月25日「にしのみや聞法会」を終えて

今回(5月25日)も前回に続き親鸞聖人の正像末和讃のお話がありました。

正法の時機とおもへども
底下の凡愚となれる身は
清浄真実のこころなし
発菩提心いかがせん
(『正像末和讃』の15)

前回は、時機が悪ければ悟ることはできないとお話しましたが、たとえ正法の時代に生まれたとしても煩悩にまみれた愚かな凡夫は仏様のような心はなく菩提心は起こせないのでどうすればよいのだろうか、というのがこの和讃の意味です。

お釈迦様は四門出遊という出来事を通して菩提心を起こして出家、修行されたと言われています。老人、病人、死人を見て、自分が避けることのできないこれらの苦しみから離れたいという強い気持ち、菩提心を持って王子という立場を棄てて出家、修行され、成仏されたのです。

親鸞聖人も両親の死を縁として出家されたと言われています。当時は仏教=出家という考え方が当たり前でしたが法然聖人は、念仏申すことが大切であり、菩提心は必要ないと教えられたので出家していた人々から大変非難されました。菩提心がなければ仏教は始まらないという考え方からすれば当然の批判でした。

真宗では生死の苦しみから離れるために聞法すると言われますが何を聞くのかと言えば、阿弥陀仏の本願、南無阿弥陀仏を聞くことと言われます。阿弥陀仏の本願とは、たとえ菩提心を起こせない底下の凡愚でも、浄土に生まれさせて、仏の悟りを開かせてみせるという願です。阿弥陀仏という仏様は、菩提心を起こせない者でなければ浄土に往生できないとは言われていません。法然聖人は、ただ南無阿弥陀仏を称えなさい、南無阿弥陀仏一つで往生できると教えられました。親鸞聖人は南無阿弥陀仏をただ耳で聴くのではなく阿弥陀仏の本願の通りになる働きが成就(完成)していることをそのままに疑いなく聞くことで救われるのだと教えられました。
だから菩提心は私たち人間が起こすのではなく阿弥陀仏から南無阿弥陀仏として差し向けて下さるのだと。だから菩提心の起こせない凡愚でも救われるのだと教えられました。以上