10月の『にしのみや聞法会』

にしのみや聞法会が開催されました。



自力諸善の人はみな 仏智の不思議をうたがへば 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける 『正像末和讃(誡疑讃)』

自らの力でもろもろの善を行うことによって浄土往生したいと思って実行している人はみな仏智の不思議を疑っているので七宝の牢獄に入るのだと戒めておられる和讃です。

その前の和讃は自力で念仏して助かろうとしても化土にしか往けないというものでした。今日のこの和讃は諸善によって何とか助かろうと思う人について書かれた和讃です。そう思うのは19願に、菩提心、証を開こうとする心を起こして、諸々の功徳をおさめて、浄土に生まれたいと思いなさい。臨終に、その人を取り囲むようにその人の前に阿弥陀仏、諸仏、菩薩が現れて下さると19願にあるのです。そのことを聞いてそれならやりましょうと思うのです。親鸞聖人はそのことを戒められているのです。なぜならそう思った人は仏智、阿弥陀仏の本願、18願を疑っているのです。法然聖人はその18願を念仏往生の願と言われます。(それに対して19願は諸行往生の願と言われます。)

法然聖人は、本願を信じ、念仏する人が往生するのだ。念仏一つで助かるのだと教えられました。そのことに対して、「念仏で助かる、諸善では助からない」ということはけしからんという人達からお釈迦様の教えを否定するのかと法然聖人に対する批判が上がりました。法然聖人が往生された後にも批判が起こりました。法然聖人は念仏には大変優れたはたらきがあると言われましたが、はっきりと結論を言われることはありませんでした。法然聖人の弟子の中にも諸行往生を言う人があらわれました。この念仏は念仏一つで救われていく他力の念仏である、と念仏一つを立てて、諸行は捨てなさいと親鸞聖人は教えられました。

念仏一つで助かると初めて聞くと、「これでいいのですか?」となるのです。それでは心許ないからです。そのままの救いと聞いても何かしなければダメだろうと思ってしまうのです。そのままとは私が私に手を出す必要がないと言うことです。自分は未熟であると思っても、未熟のままで救うのが阿弥陀仏の本願の救いです。

「自業自得の道理にて、七宝の獄に入る」とあります。そのような諸行往生の人はたとえ浄土に生まれたとしても、それは仏の姿を見ることのできない、仏の教えを聞くことのできない牢獄のようなところであるということです。それはちょうど悪いことをした転輪聖王のいるところは普通の人がいるようなところではないが宝の飾られた牢獄のようなところだと。ベッドの上から薄い布が降りていて囲まれているような状態であり、自由はないけれど苦しみも無いところである、と言われました。『大無量寿経』(画像の板書を御参照)には、たとえ菩薩がいても本願に疑いがあれば、大きな利益を失うと弥勒菩薩に教えられたとあります。19願には直接的にこのようには書かれていませんが、往ってみれば、本当の浄土ではない。それは疑いがあるからだと教えられました。親鸞聖人は仏智にまかせずに仏智以外の何かを信じることを、疑い、自力と言われます。

問題は、19願で言われる善をやりきることができるかどうかです。比叡山では出家した僧侶がこの世だけでは証を開くことはできないので浄土で修行を続けて証を開こうとしました。親鸞聖人は「願力成就の報土には 自力の心行いたらねば、、」と本願によって建てられた浄土には自力で参ることはできないと言われます。その修行はすべての人ができる修行ではないのです。たとえば体の弱い人ができるような修行ではないのです。だから「みづからおのれが能を思量せよ『教行証文類』」と知りなさいと言われます。『観無量寿経』には極重の悪人には善を勧められず、念仏一つを勧められています。

称える、口から出てくる念仏は私が称えると言ってもそれは南無阿弥陀仏となったはたらきが私の口から出て下さっている姿です。口から出てくる南無阿弥陀仏はすべての人を救うために南無阿弥陀仏なって下さった、その呼び声なのです。そのことを聞いて疑い無いのが信心です。自分が善人になって救われるのではありません。いつか助かるだろうと想像するのでもありません。偉い人になって助かるというボーダーを勝手に作り出すのではなく、南無阿弥陀仏という呼び声を聞いて疑いの無いのが信心であり、その人は浄土に往生することができるのです。以上 文責 好浦和彦