6月「にしのみや聞法会」は『正像末和讃』より。

如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
(正像末和讃)

阿弥陀仏はなぜ本願を建てられたのか。そのことを尋ねると、阿弥陀仏は苦しむ人を見捨てることなく、回向を第一になさって、大慈悲心を成就して下さった、というのがこのご和讃の意味になります。

すべての人に対して、本願を信じて、念仏するものは、必ず浄土に生まれさせるというのが阿弥陀仏の本願です。

『「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。』と親鸞聖人は言われます。もともと法蔵菩薩という修行者であった阿弥陀仏は苦しむ衆生を見捨てることができなかったと『仏説無量寿経』にあります。人間の苦しみは、病、貧しさ、戦争だという人がいますが、法蔵菩薩はそこに人間の本当の苦しみがあるとは観ておられません。私達が生まれては死に、生まれては死に、を際限無く繰り返す生死流転、生死輪転から自分の力では離れられないところに本当の苦しみを観ておられます。今はできないが、教育すれば未来にその苦しみから離れられるようになるのかと言えば、それは私達にできないから、阿弥陀仏はすべての人を漏れなく生死流転から離れさせるという本願を建てられたのです。

そしてすべての人を漏れなく救うために回向ということを第一に考えられました。聖道門の人は、回向とは、私が本願を信じて、私が念仏を称えて、ご褒美として阿弥陀仏が救うという考え方でした。親鸞聖人は、私からではなく、阿弥陀仏から私に回向して下さる本願力回向だと言われました。本願力によって、信じ、本願力によって、念仏を称え、本願力によって、浄土往生させて頂くのだと、更に教えに出遇うのも、本願力によるのだと言われました。聖道門の人のような考え方、自力回向は、最後臨終になんとか助けてもらおうとなります。そこに安心はありません。阿弥陀仏が私に、差し向けて下さることで回向の主体が阿弥陀仏になります。五劫の間考えて、兆載永劫の修行で功徳を積んで、すべての人を助けるという阿弥陀仏の願いが成就、完成したのです。信も行も浄土に往生させるのも、仏法を聞けるようにして下さるのも、すべて阿弥陀仏からの回向であり、その回向を第一にされました。こちらからお願いすることなく、既にそのはたらきがあります。

大悲心とは、大慈大悲のことであり、苦しみを抜いて、楽を与えたいという無縁の慈悲のことです。その大悲心を南無阿弥陀仏という形として完成して下さったのです。今、私が聞く、称える南無阿弥陀仏が私にはたらいて下さっている、と聞いて疑いのないのが信心だと教えて下さいました。  以上

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