7月「にしのみや聞法会」のお話

55 聖道門のひとはみな

自力の心をむねとして

他力不思議にいりぬれば

義なきを義とすと信知せり

(正像末和讃)

 

聖道門の人はみな自力の心を、中心、根本にしているが他力の不思議に入ったなら義なきを義とすると知らされるのだという意味です。

 

親鸞聖人は今から750~800年程前の方ですが、その当時は仏教には天台、真言、華厳などの宗派があり、浄土真宗はありませんでした。親鸞聖人の師匠は浄土宗を開かれた法然上人で、親鸞聖人は浄土真宗を作りました、と言われずに、法然上人の教えをお伝えするという立場でした。親鸞聖人は、宗派ではなく阿弥陀仏の本願のことを浄土真宗と言われました。

 

法然上人は二つの仏教があると言われました。一つは聖道門、そしてもう一つは浄土門であると。

当時の日本は多くの人は、仏教とは出家して、戒律を守り、修行して、煩悩を無くして、智慧を得て、悟りを開く聖道門が仏教であると思っていました。自力の仏教ともいわれ、自分の力で、自分の弱い心に打ち克つといえば大変分かりやすいのです。

それに対して自分で打ち克つことのできない人は、阿弥陀仏の誓われた本願の力によって迷いを離れ、浄土に生まれて、仏になるというのが浄土門の教えです。自力に対して他力の教えと言われます。他力とは私を救って下さる阿弥陀仏の本願の御力のことです。

 

法然上人も親鸞聖人も元々聖道門の方です。長い間修行に頑張って来られたのですが、「私は救われなかった。三学の器ではなかった」と法然上人は仰っておられます。そんな時に、善導大師の書物を読まれて、念仏のはたらきによって救われるという教えに出遇われたのです。そして教えはあっても、修行する者はいない、悟りを開く者もいないという末法の時代には、浄土門の教えでなければ救われないと教えて下さったのです。

 

現代の人もほとんど皆自力の人ではないでしょうか。

親鸞聖人は『御消息』に、「義といふは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふ。」と仰っておられます。その自力の心を中心、根本とするのが行者のはからひです。自分の力で自分の心に打ち克つという自己を中心とするわかりやすい教えです。

それに対して他力の救いはわかりにくいところがあります。私達人間は、生死を果てしなく繰り返しています。仏教では死んだら終わりとは、教えません。死んだら無常の世界でまた何かに生まれ変わり、死んでいくということを繰り返していくのです。そこから自分の力で離れていくのが聖道門の教えですが、そんなことができない人のために、阿弥陀仏は五劫という長い間考えて下さったのです。阿弥陀仏は私が、南無阿弥陀仏となって、あなたのところに行くので、そのよび声を聞いて信じて南無阿弥陀仏と称える人は必ず救うという本願を建てて下さったのです。

 

よくよく考えると、私はなにもしていない、何かしたら助かるという教えの方がわかりやすいのではないでしょうか。聖道門の人はなぜ浄土門の教えで救われるのがなかなかわからないのです。浄土門は仏教を破壊しているのだとか、仏教を知らない大衆を騙しているのだと言う人もいました。本願を信じて念仏する者は必ず救うという本願の救いは、私達の代わりに阿弥陀仏が兆載永劫という長い間、修行をして、願行が揃い成就、南無阿弥陀仏が完成したのです。

 

南無阿弥陀仏とは浄土に生まれなさいというよび声です。南無とは帰命ということで帰せよという阿弥陀仏の一方的な命令だと親鸞聖人は仰っておられます。そしてそのよび声を聞いたのが信心です。義とは「はからひ」のことです。「はからひ」のないのが本義、本当の意味であるということです。義は、「宜」とも言われます。「宜」とは私がわかるように判断するということなのですが他力の教えはもうわかったということがありません。

 

蓮如上人の『御一代記聞書(88)』に、法座の場では有り難くても、そこから離れるとその気持ちは無くなってしまうという人に対して、他力の教えにおいては、あれこれわかろうとすることから離れよ。籠を水に漬けて、籠を掴むその手を放せば、籠から水がこぼれないように、もう南無阿弥陀仏から離れることはないのだと教えておられます。義なきことを義とすると信知する、明らかに知らされるのだということです。